麻布本村町(読み)あざぶほんむらちよう

日本歴史地名大系 「麻布本村町」の解説

麻布本村町
あざぶほんむらちよう

[現在地名]港区元麻布もとあざぶ一―二丁目・南麻布みなみあざぶ一―三丁目

麻布台地の中心南部から南へ新堀しんぼり川左岸低地傾斜面に及ぶ町屋。東は陸奥仙台藩松平(伊達)家下屋敷・高家織田邸・大和高取藩植村家下屋敷・信濃飯田藩堀家下屋敷、西は陸奥盛岡藩南部家下屋敷・同八戸藩南部家下屋敷・火消役小出邸、南は常陸土浦藩(大坂城代)土屋家下屋敷、北は交代寄合山崎邸・善福ぜんぷく寺境内・同寺門前西にし町。以上は、町内がおよそ二八もの不規則な区画に分れ、東西南北とも武家屋敷寺院・百姓地などと錯雑しているので概略の記述であるが、本村すなわち麻布の地名発祥の街区が、不規則に武家地に浸食されながら展開したことをうかがわせる。もとは阿佐布あざぶ村のうちで、正徳三年(一七一三)町奉行支配となった頃麻布に文字を改めたと伝えるが(文政町方書上)、麻布の文字は、明暦武蔵国絵図(近代沿革図集)や元禄二年(一六八九)の「江戸図鑑綱目」にも使われている。本村とは麻布村のうちで古来から名主村役人の居住地であり、年貢取立て・村役・御成人足・鷹狩・役所納入物・品川東海とうかい寺夜番・品川宿助郷などを名主栄太郎名で仕切ってきた(前掲書上)。古くは奥州道中が通ったとされ、古刹善福寺の存在と並んで街の起源には重要な意味をもっていたと考えられる。

寛文八年(一六六八)はじめて家作改があり、正徳三年町奉行支配になってからも家作改は新地奉行掛であった。享保四年(一七一九)町奉行掛となり同一六年家作改免除。北部の通称うえノ町(上野町とも)は総小間田舎間二五二間余・一千九五五坪、南部の通称なか(新町とも)東西横町とも三八六間余・五千五〇〇坪余、西部の通称御殿新道ごてんしんみち(西ノ台とも)は一四四間余・一千四四〇坪余、通称仲南なかみなみ町は一三一間余・一千三三〇坪余、南部の通称川南かわみなみ(新堀端とも)は一一五間余・一千五二三坪余、南部の通称大南おおみなみ町は八一間余・八九六坪余。六ヵ所とも入組み。家数五九一、うち家持七六(うち一七他所住居)・家守五八・地借六・店借四五三(数値は史料どおり)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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