黍田村(読み)きびたむら

日本歴史地名大系 「黍田村」の解説

黍田村
きびたむら

[現在地名]小野市黍田町

下来住しもぎし村の南に位置し、東を加古川が流れる。三方を低い山地に囲まれ、加古川の対岸太郎太夫たろうだゆう村と室山むろやま村。集落は同川流域の低地山麓の平坦地に形成されている。慶長国絵図に「気尾多村」とみえる。領主変遷は寛永九年(一六三二)までは門前もんぜん村と同じと推定される。正保二年(一六四五)赤穂藩領(正保郷帳など)、元禄一四年(一七〇一)幕府領となるが、享保一五年(一七三〇)大坂城代土岐氏領となる(同一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)。その後も変遷を繰返し、寛保二年(一七四二)大坂城代・上野前橋藩酒井氏領、延享元年(一七四四)大坂城代・出羽山形藩堀田氏領、同三年上野館林藩松平氏領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵、「寛政重修諸家譜」など)、天保七年(一八三六)上野館林藩井上氏領、弘化三年(一八四六)以降陸奥白河藩領となる(明治五年「村明細帳」黍田町有文書など)


黍田村
きびたむら

[現在地名]揖保川町黍田

山津屋やまつや村の西に位置し、北は北山きたやま村。南部に宝記ほうき山が迫り、北部を馬路うまじ川が流れる。文禄四年(一五九五)五月吉日の揖保川井堰絵図(岩見井組文書)に「きびた村」、慶長国絵図に「きひた村」とみえる。江戸時代の領主の変遷は山津屋村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四〇九石余、高三三八石余。正保郷帳には田村とあり、田方三一六石余・畑方二七石余。天保郷帳には田村とあり、高五〇四石余。「西讃府志」によれば反別は二〇町四反余、うち畑方三町八反余・屋敷四反余、年貢米一三〇石余、家数四一・人数一九三、牛一五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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