北山村(読み)きたやまむら

日本歴史地名大系 「北山村」の解説

北山村
きたやまむら

[現在地名]池田町大字広津ひろつ

現池田町東北部の中山なかやま山地を村域とする。北から日野沢ひのざわ楢沢ならざわ川・袖沢そでざわ川などが中山山地を浸食して東流するため、深い谷や広い傾斜地が出現している。

北山の名は、文禄年間(一五九二―九六)の成立とみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「百六石五斗弐升弐合 北山村」とあるのを初見とする。

北山村は幾多の尾根や傾斜地に村居があるため、枝郷の数もすこぶる多い。享保一一年(一七二六)当時の枝郷には長谷久保はせがくぼ城日影じようひかげ法道ほうどう正平しようだいら坂森さかもり日影山ひかげやま大久保おおくぼ正山しようやま楡室にれむろ正之田しようのた桃之木平もものきだいら神出じんでい南栂みなみつが北栂きたつが荻平おぎだいら・荻・寺間てらまなかかい高畑たかばたけ日野ひの芦崎あしざき菖蒲しようぶ南足沼みなみあしぬま北足沼きたあしぬま平畑ひらばたけみね在家ざいけ山田やまだ・まぶねなどがあり、いずれも小集落ながら多くの枝郷が村域広く所在する。


北山村
きたやまむら

[現在地名]本山町北山

東流する吉野川の北岸、上関かみぜき村の西にある大村。村域のほとんどが山地で、北部にはたき山がある。東部を吉野川の支流くり川が南流する。村域は天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳の「下津野名」に比定され、検地面積八町六反三代二歩、うち田分八反六代一歩、畠分三町一反一代二歩、屋敷数四三で四町六反四五代五歩。公事分と名本分からなる。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば二七筆一町四反四六代二歩の切畑があり、公事分と名本分に分れ、小麦が記される。寛永地検帳(「南路志」所引)によると本田高八〇石余。天和三年(一六八三)一一月一五日付御留山改帳(「日本林制史調査史料」所収)によると村内の滝山は留山で、組頭彦左衛門が山守役を兼務、百姓一人役を給されていた。元禄地払帳では総地高四〇七石余、うち本田高七七石余、新田高三二九石余。


北山村
きたやまむら

[現在地名]福山市加茂かも町北山

粟根あわね村の北、百谷ももたに村の東に位置する。全村山地でわずかな耕地が散在、四川しがわたきたね菅町すがまち楠田くすのきだ東谷ひがしたに小仁五こにご柴目しばめ上野うえの苅光かりこう妹原いもはら(芋原)の小集落が点在する。「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条にみえる多禰たね屯倉の所在を種にあてる説がある(西備名区)。戦国時代には滝の滝山に山城が構築され、志川滝山しがわたきやま城とよばれた。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば高五二四石余、元禄一三年(一七〇〇)の検地で四九五石余となるが、これは百谷村を分村したためであろう。


北山村
きたやまむら

[現在地名]姶良町北山

山田やまだ川・木津志きづし川の上流部に位置し、南は上名かみみよう村・木津志村。中世にみえるこしきは当地に比定され、天保郷帳などには当村は甑村と記される。江戸時代初期は帖佐ちようさ郷に属したが、のち山田郷創設の際に同郷所属となった。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、帖佐西ちようささい万得まんとく領内の寺田一五町四段のうちに「最勝寺領甑二丁二尺 留守刑部左衛門尉真用」とみえる。


北山村
きたやまむら

[現在地名]一宮町北山

郡家浜ぐんげはま村の東にある。南を郡家川が北西へ流れ、川沿いを下川井しもがわい村への道が通る。村域は丘陵部と川沿いの平野部とに分れる。正保国絵図に村名がみえ、高三五四石余。天保郷帳では高五五五石余。反別戸数取調書によると反別五〇町二反余、高八四一石余はすべて蔵入地。家数一三三・人数五四二。郡家組に属した。当村は高い山がないうえに谷が浅いため水源に乏しく、また郡家川の下流にあるため灌漑期には水量は少なくなることもあって毎年のように旱魃に苦しんだ。


北山村
きたやまむら

[現在地名]青山町北山

勝地かちじ村の南に位置し、東西に長い。東部は大部分山地で、現在青山高原とよばれる。集落は西方にあり、南方伊勢地いせじ村で阿保越参宮道より分れた道は集落の南を通り比自岐ひじき(現上野市)方面へ続く。この道は中世から近世にかけて青山峠と北伊賀を結ぶ要路であった。村境の道端に応安六年(一三七三)の刻銘のある石造地蔵菩薩立像がある。


北山村
きたやまむら

面積:四七・二九平方キロ

北から西は奈良県、東から南は三重県に囲まれた東牟婁郡の飛地。北は奈良県吉野よしの下北山しもきたやま村、西は同十津川とつかわ村、東と南は北山川を隔てて三重県熊野くまの市と同南牟婁郡紀和きわ町。北山川下流約五キロに熊野川くまのがわ町の飛地玉置口たまきぐちがあり、さらに四キロほど下ると熊野川町九重くじゆうに至る。この間の北山川は北山峡・どろ峡と称される渓谷で、国道一六九号が熊野市五郷いさと町から北山川沿いに下尾井しもおいの字小瀬こせまで通ずるが、熊野川町側へは道がない。

集落は北山川河畔の狭小な段丘上に散在し、村の約八五パーセントが山林で、耕地は全体の〇・五パーセントにすぎない。九割以上が林業を生業とし、北山筏の初発地であった大沼おおぬまを中心として筏師も多かったが、昭和四〇年(一九六五)七色なないろダム、翌年の小森こもりダムの完成により、筏師は新宮市などへ転出、過疎化も著しい。


北山村
きたやまむら

[現在地名]山辺町北山

大蕨おおわらび村の北、白鷹しらたか丘陵北部の鳥海山北麓に位置する。元和八年(一六二二)幕府領山形藩預地、寛永三年(一六二六)山形藩領、天和二年(一六八二)大名本多利長領、元禄一二年(一六九九)幕府領となる。「最上記」によれば高一五五石余。安永二年(一七七三)の村明細帳(峰田文書)によれば高三六一石余、反別は田方一九町余・畑方一六町余、新田畑一六町七反余で、御林が一五五町余。家数七七、うち百姓七四・借地三、人数三八四。年貢はすべて金納で、青苧の生産が盛んで、北山苧と称していた。用水は湧水を利用。

正保三年(一六四六)切支丹である当村右馬之助が捕らえられ、万治元年(一六五八)には寒河江さがえ代官所で牢死しているが、当村には切支丹類族の墓と伝える石塔が残っている。


北山村
きたやまむら

[現在地名]稲美町北山国安くにやす

現稲美町の西中央部に位置する。くもり川が村内の満溜まんりゆう池に源を発し南西流する。慶長国絵図には北山と北山村がみえる。にゆう(入之)池・長府ちようふ池がある。天満大てんまおお池から取水する池郷とよばれる村の一つで、印南野いなみの台地においては、まれにみる安定した農業基盤を誇った。正保郷帳によると田方二九四石余・畑方七六石余。元文二年(一七三七)の村明細帳(大住文書)では高五一一石、田二三町九反余・畑一九町六反余、家数一二四・人数七五一。天保郷帳では高五二二石余。入ヶ池築造については和銅七年(七一四)に村人が夢告によって六枚屏風の堤をつくり、美女を人柱にしたという伝説がある。当村にある真楽しんらく寺は人柱とされた女「入」の霊を祀るため建立されたという(「入之池由来記」常泉寺蔵)


北山村
きたやまむら

[現在地名]四賀村会田あいだ 東北山・中北山・西北山

松本藩領会田組で、のち幕府領。会田町・宮本みやもと西宮にしのみや落水おちみず井刈いかりの各村に接する。会田川右岸山地の村である。

天正検地の時は会田町あいだまち村の枝郷とあり、慶安検地の時に分れている。「信府統記」によると「御朱印高四十四石五升七合」で、享保九年(一七二四)当時の石高は六一石七斗四升九合、うち田一石一斗二合、畑四二石九斗九升九合、慶安検地時は本百姓二二軒、門百姓一二軒である。戦国時代末からの開墾で山中の湧水地近くに幾つかの小集落をなし、明治には東北山・中北山・西北山と分けられていた。


北山村
きたやまむら

[現在地名]石川町北山

阿武隈高地の山間部、湯郷渡ゆごうと村の南に位置し、南西は双里そうり村。西端を北須きたす川、東部を同川支流の今出いまで川が流れる。字羽貫田はぬきだに中世城館跡がある。天保郷帳に双里村枝郷と注記される。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、その後の領主変遷は高田たかだ町と同じ。白河古領村郷高帳による高四七五石余。


北山村
きたやまむら

[現在地名]美作町北山

はら村の北、梶並かじなみ川右岸に立地し、出雲往来が通る。村内を曾井そい川が流れ、北西は上相かみや村。正保郷帳に村名がみえ、田五六二石・畑一五四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一一五石余・開高三六石余、村位は中。津山藩森氏断絶後は幕府領、享保一五年(一七三〇)大坂城代土岐領、寛保二年(一七四二)上野沼田藩主土岐領(美作国郷村支配記)。「東作誌」によれば東分・西分に分れて記載されるが、分村時期は未詳。東分は高五七四石余、戸数三二、男六五・女五六。


北山村
きたやまむら

[現在地名]魚津市北山

かど川右岸の山地にあり、北西は稗畠ひえばたけ村。明応六年(一四九七)九月一〇日の極性寺年貢米日記(極性寺暦代略記)によると、「キタ山村」が極性ごくしよう(現富山市)に年貢米を納めているが、これは当地のことであろう。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一〇六石・免五ツ、小物成は山役二〇匁・蝋役四匁(三箇国高物成帳)。貞享元年(一六八四)に三八石の検地引高があり、一方文化一四年(一八一七)など二度の手上高があって天保一一年(一八四〇)の打銀高八九石(「高免帳」杉木家文書)。所属組は魚津町田地方うおづまちでんじがたと同じ。慶応三年(一八六七)頃に当村の仁右衛門が鎮守の後方で霊泉を発見し、この霊水を用いた鉱泉宿が幾つもできたという(下新川郡史稿)


北山村
きたやまむら

[現在地名]四日市市北山町

朝明あさけ川の北、小牧こまき村の東にあり、村の北側は低い丘陵となる。中里なかざと村・山城やまじよう村とともに中世、下野しもの(霜野)三郷のなかに含まれた(櫟木文書)。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳によれば、この時期以前に瀬尾彦太郎が一四〇貫文を知行していた。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領。宝永八年(一七一一)の戸数六五、うち本百姓三七、人口三二二(男一六二・女一六〇)、馬七、牛一九(うち本百姓所持一六・名子水呑所持三)


北山村
きたやまむら

[現在地名]桜井市大字北山

御破裂おはれつ山西北の渓谷村落。文禄(一五九二―九六)期は豊臣秀長の家臣井上源吾の所領、慶長郷帳の村高は一四〇・九三石。関ヶ原戦後旗本水野氏(守信系)領となり、明治維新に至った。

天保二年(一八三一)の水野家大和国五ケ村大締明細帳御成箇十ケ年平均帳(生田の高瀬家文書)によれば、万治二年(一六五九)家老太田所右衛門の再検地の結果、村高一四三・九五五石となる。反別一三町七反三畝五歩、多武峯寺領分に山反別が三町四反余あるとする。山村であるので三石の鹿追給が認められている。


北山村
きたやまむら

[現在地名]貴志川町北山

御茶屋御殿おちややごてん山の東南麓に広がる。西は尼寺あまでら村、南は前田まえだ村。村の中央を丸田まるた川が北東に流れる。貴志川断層地帯の中高所にあたる。「続風土記」は「北の方山麓にあるを以て、北山の名あり、旧は西山村より出し村といふ」と記す。白鳳期の北山廃寺跡が丸田川の北岸洪積層台地上にある。慶長検地高目録によると村高三八〇石余、小物成一斗六合。小倉組に属し、「続風土記」は家数三七、人数一六三、社寺として法華ほつけ(日蓮宗)と観音堂(法華寺の境内)を記す。


北山村
きたやまむら

[現在地名]院内町北山

津房つぶさ川下流の山間部、大蔵おおぞう(五四三メートル)の西麓に位置し、北・東・南は現宇佐市、西はおき村。小倉藩元和人畜改帳では高一二九石余、家数六・人数二五(うち百姓四・名子二)、牛四。百姓には庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には香下組に所属し、人数六七(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高一三九石余。文化九年(一八一二)農民一揆では、北山組の農民五〇〇名が大庄屋北山作左衛門宅に押しかけ、「家蔵器財」一式を打毀した(党民流説)


北山村
きたやまむら

[現在地名]八東町北山

みなみ村の北に位置し、若桜わかさ往来が通る。拝領高は三三五石余。本免五ツ五分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高三七〇石余、竈数二〇余。「因幡志」では家数三二、産土神は八幡宮。鷹山たかのやま城跡がある。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三七九石余、竈数三二。洞・戸田・竹間・中山・南条・栗田・山田・天野・森の九氏の給地があった(給人所付帳)。上坂に御立山があり(文政九年「八東郡村々御立山絵図面合帳」県立博物館蔵)、藪役銀一一匁余を課されていた(藩史)。享保三年、当村山への南村の草刈入会が藩によって認められ、その代償として南村から年に米二斗を受取ることになったが、それによる当村の肥草不足は山志谷やましだに(現郡家町)の山へ入会うこととされ、代米三斗を納めることになった(在方諸事控)


北山村
きたやまむら

[現在地名]福井市北山町

文殊もんじゆ山と北山(九二メートル)に挟まれた谷間に位置し、北に北山新保きたやましんぼ村がある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では徳光とくみつ保内に含まれ、村名は正保郷帳にみえ、田方五二六石余・畠方四五石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば松平主馬の知行地。

北山南麓に諏訪神社がある。貞享三年(一六八六)の御朱印地御除地御改帳(藤井家文書)に「諏訪大明神社地 北山村社人神九郎 一、壱反四畝八歩 右ハ一乗英林御代ニ諏訪大明神社地寄進被成、則社等も御建立、毎月廿七日ニ供物被遣、義景公迄五代之間、御信心被成、則社人之名頭を神と申字を御免被下」とある。


北山村
きたやまむら

[現在地名]福知山市字北山

和久わく川の上流、支流北山川の谷頭に位置する。北東に和久山(約四七二メートル)があり、山麓に波浪状の台地がある。福知山藩領で高二三七・一〇八石(丹波志)

中世は豊富とよとみ庄の地。近世初期には豊富村の中に含まれた。福知山藩朽木氏時代に豊富郷から浮役として藪代を納めたのは、だん(一〇匁)小牧こまき(一四匁五分)・北山(四匁)下戸さげと(二匁)樽水たるみ(四匁)の五村で計三四匁五分であった。


北山村
きたやまむら

[現在地名]勝山市遅羽おそわ町北山

禅師王子ぜぜおうじ山北支脈の東麓に位置し、南は大袋おおぶくろ村、北は蓬生よもぎ村。地名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「遅羽村之内北山惣社之前」とみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)大野藩領、天和二年(一六八二)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。


北山村
きたやまむら

[現在地名]珠洲市若山町北山わかやままちきたやま

よしいけ村の西、鳳至ふげし郡境にあり、若山川南岸側の南山みなみやま村に対応する村名。寛永八年(一六三一)の闕所覚(尾間谷文書)に北山とあり、能登一国代官の稲葉左近直富により、当村二七八石余(物成二ツ六歩)が南山氏などとともに闕所となっている。北山氏はこれによれば闕所以前はおそらく下人を抱えて九八石余を自作し、一八〇石余は「地之者共手前分」、つまり分譲地を耕作させ地代などをとっていたとされる。正保郷帳に村名がみえ、高一一三石余、田六町一反余・畑一町四反余、新開高二〇石余(免二ツ六歩三厘)


北山村
きたやまむら

[現在地名]柏原町北山

西は鴨野かもの村と境を接し、集落の北側に山を背負う。慶長年間(一五九六―一六一五)頃同村の村民の一部が移住して耕地を開発し、村を形成したともいわれている。嘉慶二年(一三八八)二月一八日の石龕寺教善坊引旦那願文(熊野本宮大社文書)に「北山太夫」が「二や太夫」と並んでみえ、当地に石龕せきがん(現山南町)教善坊を先達とする紀伊熊野本宮の旦那(信徒)がいた。正保郷帳に村名がみえ田高二二二石余・畠高二六石余。林あり、日損・水損少し。


北山村
きたやまむら

[現在地名]龍野市揖西町北山いつさいちようきたやま

前地まえじ村の西に位置し、揖西郡に属する。東西約三町の南北に細長い村域を有する。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に「池山村」とみえ、小出吉政は同村の二一六石余などを与えられている。慶長国絵図に北山村とみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四二五石余、高三五二石余。正保郷帳では田方三三八石余・畑方一三石余。元禄郷帳には「桑原北山村」と記され、現揖保川いぼがわ町の「片島北山村」と区別されている。


北山村
きたやまむら

[現在地名]揖保川町神戸北山かんべきたやま

正条しようじよう村の西に位置し、西は神戸山を境に片島かたしま村。慶長国絵図に村名がみえる。揖西いつさい郡内には北山村が二村あるので、両村を区別するため元禄郷帳には当村に片島、現龍野市の北山村に桑原くわばらと肩書が付されている。「神部村誌」によれば宝永六年(一七〇九)神戸北山村と改称したというが、天保郷帳にも片島の肩書がある。領主の変遷は半田はんだ村と同じ。


北山村
きたやまむら

[現在地名]井原市北山町

井原村の北東、南東流する小田おだ川左岸の高原台地にある。寛永備中国絵図では山崎家治先知とあり、高六八石。正保郷帳では幕府領、延宝五年(一六七七)検地帳(後月郡誌)には古検有畝五町四反とあり、田方九反余・分米一三石余、畑方一一町九反余・分米五三石余、屋敷二反余・分米二石余、楮一千四五八株が顕著で、畑作中心の村方。元禄郷帳では西江原藩領。文政一〇年(一八二七)以降、三卿の一橋領となり、同一三年の後月郡村様子書(安井文書)では田反別一町余のうち四反余が両毛作、旱損所とあり、家数三一・人数一五三、牛八。


北山村
きたやまむら

[現在地名]加西市福住町ふくずみちよう

片島かたしま村の西に位置し、福住丘陵の南麓に立地する。南は西剣坂にしけんざか村。正保郷帳に村名がみえ、田方九八石余・畑方八石余。領主の変遷は享保五年(一七二〇)幕府領となるまでは東南ひがしなん村と同じ。宝暦二年(一七五二)から同一三年まで上野高崎藩領、天明二年(一七八二)から同四年まで下野宇都宮藩領(「歳之当御条目」吉野町有文書など)、天保元年(一八三〇)武蔵忍藩領となり幕末に至る(天保元年「忍藩領高覚書」要中録など)


北山村
きたやまむら

[現在地名]富士宮市北山

外神とがみ村の北、山宮やまみや村の北西、富士山西麓の山地および丘陵に立地する。山間を滝沢たきさわ川・本門寺沢ほんもんじさわ川などの浸食谷が流下する。寛永改高附帳に北山村とみえ高六一一石余、ほかに重須おもす本門寺領五〇石がある。元禄郷帳では高九三八石余。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本安藤領と本門寺領。


北山村
きたやまむら

[現在地名]八百津町八百津

細目ほそめ村の枝郷で、本郷の北にあたる。本郷の属邑西牧にしまきより小谷筋の山道を伝い、本郷札ノ辻より村の入口まで一〇町四〇間。村の奥までは一里余あって、その北は譲葉ゆずりは村へ至る。「濃州徇行記」では高一二九石余、家数一三八は四ヵ所に分れ、人数五〇四、馬二九、赤薙あかなぎ(五四戸)白谷はくだに(三二戸)板橋いたばし(不明)がある。


北山村
きたやまむら

[現在地名]五條市北山町

河内国境、千早ちはや峠東南麓の渓谷村落。西はかみノ村。慶長郷帳の村高一四六・九一石。近世を通じ旗本根来氏(長算系)領。東谷ひがしたに西谷にしたにの二集落より構成される。

西谷集落の小字ふるしろは千早峠を通る街道を扼する標高三八〇メートルの地点で、東西四〇メートル、南北三五メートルの台地があり、牧野氏の支族北山宣経の居城跡と伝え、近くにしろたに土居どいの小字がある。


北山村
きたやまむら

[現在地名]山田村北山

赤目谷あかめだに村の北東、山田川左岸に立地する。正保郷帳に村名がみえ、小谷こだに村・赤目谷村を合せて高一〇四石余、田方一町一反余・畑方五町八反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳ではなか村の一〇町ほど南にある枝村新田として高四一石余と記される。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高四〇石余・定免五ツ二歩、定小物成は山役銀二七匁余・漆役銀一匁余・蝋役銀一匁余。


北山村
きたやまむら

[現在地名]武生市北山町

丹生山地東麓の谷あいにある。大永三年(一五二三)の横根寺々領田地惣目録(青山家蔵)に「北山」とみえ、慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に高九四六・六九七石、先高七六〇石・出分一八六石余とある。正保郷帳によると田方八四五石余・畠方一〇〇石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となったが、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、正徳二年(一七一二)頃再び幕府領、明和元年(一七六四)三河国西尾藩領となる。


北山村
きたやまむら

[現在地名]太子町広坂ひろさか

広坂村の東に位置する。天保八年(一八三七)書写の龍野藩領分明細帳(八瀬家文書)によると、万治元年(一六五八)に大坂から来た百姓が西脇にしわき(現姫路市)・広坂・松尾まつお上太田かみおおだ鵜飼うかい各村から高を持出して北山村を分村したという。


北山村
きたやまむら

[現在地名]姫路市飾東町北山しきとうちようきたやま

飾東郡に所属。あま川上流の左岸、天川あまかわ谷の出口に位置し、当村以北は谷外内たにほうないとよばれた。西は豊国とよくに村。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。


北山村
きたやまむら

[現在地名]糸魚川市北山

はや川左岸、対岸は大平おおだいら村で砂場すなば村の北と西。正保国絵図に高五〇石余とある。天和三年郷帳では一〇四石七斗余とある。天明三年(一七八三)の大悪作に際しては破免を願い、村高一〇五石八斗余に対し定免は三三パーセントであったが、この年は一六パーセントを課せられている(糸魚川市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北山村」の意味・わかりやすい解説

北山〔村〕
きたやま

和歌山県東部,熊野川支流の北山川右岸の村。1889年村制。三重県,奈良県に囲まれた和歌山県の飛び地で,かつて北山川上流域で産する木材をで新宮(→新宮市)に流送した筏師の村であった。七色峡など奥瀞(→瀞峡)の峡谷美で知られたが,七色ダムの建設により水没。1958年から筏による輸送はトラックに代わった。林業を主とする。吉野熊野国立公園の一部。国道169号線が通る。面積 48.20km2。人口 404(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android