黒松村(読み)くろまつむら

日本歴史地名大系 「黒松村」の解説

黒松村
くろまつむら

[現在地名]江津市黒松町

那賀郡北東端に位置し,日本海に臨む。東は邇摩にま吉浦よしうら(現温泉津町)および波積北はづみきた村、西は後地うしろじ村の地先波来浜ならはまの砂浜地帯を細長く宝殿ほうでんヶ鼻近くまで占有し、後地村を海から遮断している。かつては都治本つちほん郷・後地村とともに都治郷を構成していた。慶長七年(一六〇二)八月大久保長安による検地が猪飼太郎助を奉行として行われ、黒松村が成立した(「那賀郡都治之内黒松分御検地帳写」森家文書)今浦いまうら(現温泉津町)に置かれた今浦船表番所の添村として番所の日用経費や修復費用などを負担した(「石見国郡中入用其外取計定書」重富家文書)正保国絵図に村名がみえ、高一四二石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方一二〇石余・畑方二三石余、年貢高は米三九石余・銀一九〇匁余、家数本家三四・門屋五〇、人数四二二、馬三・牛二二、小物成は浦役四六匁・水夫二人役一八匁。


黒松村
くろまつむら

[現在地名]犬飼町黒松 黒松東くろまつひがし

山田やまだ村の西、柴北しばきた川北岸にある。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳に村名がみえ、井田いだ郷に属し田高二一三石余・畑高九一石余、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高二六六石余。安永七年(一七七八)には柴北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。安政二年(一八五五)高津原こうづはる村から獅子舞が伝授された(「柴北流獅子舞濫觴巻」犬飼町誌)。明治八年(一八七五)柚河内ゆがわち村・千束せんぞく村・三嶽さんのたけ村を合併。臨済宗妙心寺派松巌しようがん寺は寛永一一年(一六三四)の開創という(豊後国志)


黒松村
くろまつむら

[現在地名]金屋町黒松

上六川かみむつがわ・下六川両村の東部山腹にある。「続風土記」に「旧六川より分れたる村なるへし、黒松は其地にありし木の名より出たるならむ」とある。村は上組・中組・下組の三つに分れる。標高約三〇〇メートルの高所で、冬の寒気が厳しい。慶長検地高目録によれば村高一九六石余、小物成三斗一升九合。慶長六年(一六〇一)の黒松村御検地帳写(岩本家蔵)には焼畑が記されており、小字夏焼なつちやけとの関連を類推させる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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