日本歴史地名大系 「黒駒村」の解説 黒駒村くろこまむら 茨城県:下妻市黒駒村[現在地名]下妻市黒駒鬼怒(きぬ)川左岸にあり、北は江(え)村、西は平方(ひらかた)村。延元五年(一三四〇)一月二二日の北畠親房御教書写(松平基則氏旧蔵結城文書)に「駒楯辺凶徒、今春ハ以外微弱散々式候、仍自去十一日宗祐並木渡戸と申候所ニ取陣、欲絶凶徒兵粮之道候、一切不及出合之式候之間、重為対治」とあり、村内の駒(こま)城(駒館)辺りの状況を伝えている。駒城(県指定史跡)には建武年中(一三三四―三八)から中御門少将藤原実寛が在城し、小田(おだ)城(現筑波郡筑波町)・関(せき)城(現真壁郡関城町)を居所とした北畠親房に与力したが、延元四年九月から北朝方の高師冬に包囲され、翌五年三月二七日の急襲により落城したという(新編常陸国誌)。 黒駒村くろこまむら 兵庫県:加西市黒駒村[現在地名]加西市北条町黒駒(ほうじようちようくろこま)市場(いちば)村の西、中播丘陵北部に位置する。地名は当村に鎮座していた酒見(さかみ)大明神(現住吉神社)が当村から寺内(てらうち)村へ遷座する際、村人から献上された黒い駒に召されたことに由来するとの説があり(黒駒区有文書)、また別に駒塚による地名だともいわれる(加西郡誌)。駒塚は牛馬が病気にかかると参拝し、平癒を祈れば必ず霊験があると言伝えられている。領主の変遷は市場村と同じ。正保郷帳では田方一五〇石余・畑方二四石余。ほかに一石余の新田畑がある(「田安家御領知郷村高帳」田安徳川家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報