日本歴史地名大系 「下妻市」の解説 下妻市しもつまし 面積:六一・六三平方キロ県西部にあり、東は小貝(こかい)川を境に真壁(まかべ)郡明野(あけの)町・筑波郡筑波町、南は結城郡千代川村、西は鬼怒(きぬ)川を境に同郡八千代町、北は真壁郡関城(せきじよう)町に接する。小貝・鬼怒両河川の乱流によって生じた沖積低地と低地に突出た半島状の洪積台地(伊佐下妻台地)からなり、台地の間には砂(さ)沼・旧大宝(だいほう)沼などの長大な谷津地形がみられる。「和名抄」に下真(しもつま)郷、「吉記」承安四年(一一七四)三月一四日条に下津真(しもつま)庄とあり、「吾妻鏡」治承五年(一一八一)閏二月二三日条には下妻四郎清氏の名がある。〔原始・古代〕遺跡は川や湖沼に臨む台地縁辺部にあり、縄文中―後期の遺跡が多い。鬼怒川沿いには江相(えあい)ノ田(た)・渋井(しぶい)・中居指(なかいざし)、旧大宝沼周辺に弥平太(やへいた)・相(あい)ノ田(た)・坂本(さかもと)、その中間に北原(きたはら)・大木田向(おおきたむかい)・根崎前(ねざきまえ)、小貝川周辺には桜塚(さくらづか)・薄久保(うすくぼ)・西原(にしはら)の各遺跡などがある。弥生遺跡・古墳の数は少ないが、田向遺跡・観音山(かんのんやま)古墳が知られる。古代の下妻地方は常陸・下総両国の国境に位置し、市域の中心部から北は常陸国新治(にいはり)郡、東部の高道祖(たかさい)地区は筑波郡、南部は下総国豊田(とよだ)(岡田)郡に属していた。鬼怒川河道の変遷は国境の移動を余儀なくし、国政上の重要課題となっていた。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)八月一九日条にある毛野(けの)(鬼怒)川の河道改修事業と「其両国郡堺、亦以旧川為定、不得随水移改」との記述はこの間の事情を間接的に伝えるものである。平将門の乱では市域は戦乱に巻込まれ、将門の敵対者源護一族の陣営が置かれた大串(おおくし)の地が、将門によって焼払われている(将門記)。また市域の南の加養(かよう)地区(旧下総国豊田郡)には九世紀頃の条里制水田遺構が検出されており、鬼怒川沿岸の開発の進行を物語る。〔中世〕下妻地方は平安末期には新治西(にいはりさい)郡南条(なんじよう)(関郡)に属し、すでに下妻庄が立荘されていた(吉記)。下妻庄の下司は、茨城南・筑波・関(せき)各郡一帯に強い支配力を有し、のちに鎌倉幕府の御家人となった下妻広幹が勤めたが、広幹は建久四年(一一九三)に誅せられ(「吾妻鏡」同年一二月一三日条)、下妻庄の地頭職は下野国の豪族小山朝政に与えられた(同書建久三年九月一二日条)。 下妻市しもつまし 2006年1月1日:下妻市が結城郡千代川村を編入⇒【千代川村】茨城県:結城郡 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下妻市」の意味・わかりやすい解説 下妻〔市〕しもつま 茨城県南西部,常陸台地西部にある市。 1954年下妻町が上妻村,総上村,豊加美村,高道祖村の4村を編入して市制。 2006年千代川村を編入。鬼怒川,小貝川の両流域にまたがり,常総地方の水運による物資の集散地として繁栄。明治以後下妻支庁,裁判所,警察署,県立中学校が設置され,水戸,土浦とともに県下三大中心地の一つとなった。米作,野菜の施設栽培が行なわれるほか,ナシを特産。畜産は養豚が中心で子ブタ市場,食肉センターがある。工業は製粉,花火製造が盛んなほか,電機などの小規模工場が多い。詩人横瀬夜雨の生家,本殿が国の重要文化財に指定されている大宝八幡神社 (だいほうはちまんじんじゃ) ,国指定史跡の大宝城跡がある。関東鉄道常総線,国道 125号線,294号線が通る。面積 80.88km2。人口 4万2521(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by