藪内剣仲(読み)やぶのうちけんちゅう

改訂新版 世界大百科事典 「藪内剣仲」の意味・わかりやすい解説

藪内剣仲 (やぶのうちけんちゅう)
生没年:1536-1627(天文5-寛永4)

安土桃山~江戸初期の茶人。藪内流の祖。字は子的,名は宗胤,藪中斎(そうちゆうさい)と号し,剣仲は禅僧春屋宗園より別号として与えられたものである。堺の茶匠藪内宗把の養子となり,茶の湯をはじめ武野紹鷗に学んで紹智と改名し,さらに千利休に学んだ。道具の鑑識眼に優れ,利休は書状で剣仲に道具の選定を頼んだり,剣仲所持の釜を絶賛するなど,剣仲の目を高く評価していた。1581年(天正9),利休より相伝を受け,その証として与えられた〈雲脚〉の額が現存する。剣仲の妻は古田織部の妹といい,藪内家の茶室燕庵(えんあん)はもと織部宅にあったもので,織部好みとして最も由緒正しい茶室である。晩年は京都下長者町に住し,92歳で没した。藪内家は2代真翁紹智(1580-1655)の代より西本願寺の茶道師家となり,上京の千家の上流(かみりゆう)に対して下流(しもりゆう)(下京に家があったため)と称され,独特の厳しい茶風を誇り,のちに藪内流家元として流勢を伸ばした。
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朝日日本歴史人物事典 「藪内剣仲」の解説

藪内剣仲

没年:寛永4.5.7(1627.6.20)
生年:天文8(1539)
室町時代の茶人。茶道藪内流の祖。幼名九助。諱 は宗胤。紹智,藪中斎,宗胤,燕庵と号した。摂津尼崎の人。茶人として知られた藪(藪内)宗巴の養子となり,藪内家を継ぐ。武野紹鴎の弟子となり,一字を譲られて紹智と名乗った。天正8(1580)年ごろ,尼崎から京都紫竹に居を移して大徳寺の春屋宗園に参禅。紹鴎没後,利休に皆伝を得,雲脚の扁額や茶道具を贈られた。大名茶人であった古田織部の妹と結婚。利休の没後には豊臣秀吉に出仕したが,ほどなく辞したと伝える。文禄4(1595)年春屋から剣仲の号を得,上京に居を移す。のち三畳台目に相伴席がついた織部好みの茶室燕庵を譲られた。所持の茶道具に東山御物の唐銅象耳花入「姫瓜」,「南蛮毛織抱桶水指」,燕庵名物の「金槌釜」,「織部暦手茶碗」などが,遺墨として「台跡」「台子ノ画」,自作の茶道具に竹一重切花入,竹茶杓など残る。紹智の名が代々継がれ,平成期に13代におよぶ。<参考文献>『茶道の源流』全6巻

(谷端昭夫)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藪内剣仲」の解説

藪内剣仲 やぶのうち-けんちゅう

藪内紹智(やぶのうち-じょうち)(初代)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の藪内剣仲の言及

【燕庵】より

…藪内家の代表的な茶室で,古田織部が大坂出陣に際し,京屋敷の茶室を義弟にあたる藪内家初代剣仲に与えたものであると伝えられる。1864年(元治1)の兵火に類焼したあと,摂津有馬の武田儀右衛門が忠実に写し建てていた茶室が移築(1867)されたのが現在の燕庵である。茅葺き入母屋造で,南東隅の入り込んだ土間庇に躙口(にじりぐち)をあけている。三畳台目に二枚襖を隔てて相伴席を付設したのが燕庵の最大の特色である。…

※「藪内剣仲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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