藪内家の代表的な茶室で,古田織部が大坂出陣に際し,京屋敷の茶室を義弟にあたる藪内家初代剣仲に与えたものであると伝えられる。1864年(元治1)の兵火に類焼したあと,摂津有馬の武田儀右衛門が忠実に写し建てていた茶室が移築(1867)されたのが現在の燕庵である。茅葺き入母屋造で,南東隅の入り込んだ土間庇に躙口(にじりぐち)をあけている。三畳台目に二枚襖を隔てて相伴席を付設したのが燕庵の最大の特色である。相伴席は茶室にゆとりを与えると同時に,上・下段の構成を組み入れて貴人の待遇に適応させることができるため,この形式は特に武家社会に歓迎された。床前の二畳から点前座にかけて平天井,他は化粧屋根裏となっている。黒塗の床框(とこがまち),茶道口の竹の方立,花入掛の釘を打った墨跡窓,点前座の色紙窓,上棚を長くした二重釣棚(雲雀(ひばり)棚)など,織部の作意をそのまま伝えている。窓は全部で10窓を数えるが,窓が多いのも織部の特色を示している。
執筆者:中村 昌生
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藪内(やぶのうち)家を代表する茶室。大坂の陣に出征する古田織部(おりべ)が、義弟にあたる藪内家初代剣仲(けんちゅう)に与えていった茶室であると伝えられている。2代真翁(しんおう)は西本願寺の茶道師家に迎えられ、門前に屋敷を移すことになった。このとき剣仲屋敷の茶室も移され、露地も忠実に復原されたとみられる。茶室は燕庵と名づけられ、藪内家の代表的な茶室として尊重されてきた。1864年(元治1)の兵火に藪内家は類焼し、燕庵も失われたため、摂津有馬(神戸市)の武田儀右衛門(ぎえもん)が忠実に写し建てていた茶室を1867年(慶応3)に移建した。これが現存する燕庵である。
茅葺(かやぶ)き入母屋造(いりもやづくり)で、南東隅の土間庇(どまびさし)に面して躙口(にじりぐち)をあけている。三畳の客座を挟んで点前座(てまえざ)と相伴席(しょうばんせき)を配している。客座との境に二枚襖(ふすま)を隔てて相伴席を付設した点に燕庵の最大の特色があり、この形式はとくに武家社会において歓迎された。窓が多いのも織部の作風の特色で、点前座勝手付きの色紙窓以下全部で10窓を数える。墨蹟窓(ぼくせきまど)に花入れの釘(くぎ)を打つこと、雲雀棚(ひばりだな)とよばれる上棚の長い釣棚の形式なども織部の作意を伝えている。
[中村昌生]
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…この屋敷は剣仲の子で2世真翁紹智(1580‐1655)が本願寺の良如上人の知遇を得て寺領の一部を拝領したものであり,ここに流儀の基礎が確立されたといってよい。また古田織部が剣仲に与えたという茶室の燕庵(えんあん)もこのとき移築された。【筒井 紘一】。…
※「燕庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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