北見国(読み)キタミノクニ

デジタル大辞泉 「北見国」の意味・読み・例文・類語

きたみ‐の‐くに【北見国】

北見

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日本歴史地名大系 「北見国」の解説

北見国
きたみのくに

明治二年(一八六九)八月一五日に置かれ、「宗谷そうや利尻りいしり礼文れふんしり枝幸えさし紋別もんへつ常呂ところ網走あはしり斜里しやり」の八郡からなる(公文録)。旧西蝦夷地のサンナイソウヤリイシリ、エサシ、アバシリモンベツシャリの七場所の地域。北海道の北東部、オホーツク海沿岸に位置し、現在の宗谷支庁管内のうち天塩郡豊富とよとみ町を除く地域と網走支庁管内の全域を併せた地域にあたる。北見国の範囲は西端が日本海に浮ぶ礼文れぶん利尻りしりの二島で、宗谷岬部から東はオホーツク海に面し、一部に湾や岩浜海岸を有するものの、ほぼ砂浜海岸が続く。東端は知床しれとこ半島の先端に至る岩浜海岸の続く北西岸一帯までの海岸地帯。内陸部の北部は北見山地で天塩国、中央部は石狩山地で石狩国、東部は千島火山帯で十勝国・釧路国・根室国にそれぞれ分けられる。国名の選定にあたり松浦武四郎は、西はテシホ(天塩)境から東は子モロ(根室)境シレトコまで海岸線百二、三〇里の範囲とリイシリ(利尻)・レフンシリ(礼文)二島を含む地域の呼称としては、ソウヤ、モンベツ、シャリなどの名称はいかにも不都合であるとし、「常々此辺ノ事此海岸ト唱来候事故、北之文字相用。カラフト島快晴の日には見へ候ニ付、北見等如何に御坐候哉と奉存候」と北見を提案(「国名之儀ニ付申上候書付」松浦家文書)、これが採用された。

明治二年八月から同四年八月まで利尻郡が常陸水戸藩支配、東部の斜里しやり・網走の二郡は同二年九月から同三年六月まで尾張名古屋藩支配、中央部の常呂ところ郡は同二年九月から同三年閏一〇月まで安芸広島藩支配、その北側の紋別郡は同二年九月から同三年八月まで紀伊和歌山藩支配、北西部の枝幸えさし・宗谷・礼文の三郡は同二年九月から同三年六月まで加賀金沢藩の支配に割当てられた(「事業報告」第一編)

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百科事典マイペディア 「北見国」の意味・わかりやすい解説

北見国【きたみのくに】

1869年蝦夷(えぞ)地を北海道と改めた際に建置された11ヵ国の一つ。北海道東北部に位置し,斜里(しゃり)・網走(あばしり)・常呂(ところ)・紋別(もんべつ)・枝幸(えさし)・宗谷(そうや)・礼文(れぶん)・利尻(りしり)の8郡を含む。先史時代にはオホーツク文化の拠点として,近世以降は山丹(さんたん)交易でも重要な地域であった。開拓使設置後,水戸藩・金沢藩などの分領支配,根室(ねむろ)県,札幌県を経て,1886年から北海道庁管下。

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