百科事典マイペディア 「金沢藩」の意味・わかりやすい解説
金沢藩【かなざわはん】
→関連項目頭振|板橋宿|加賀騒動|加賀国|勝興寺|尊経閣文庫|大聖寺|富山藩|放生津|前田綱紀
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加賀藩とも。加賀国金沢(現,金沢市)を城地とする外様大藩。1581年(天正9)前田利家は織田信長から能登1国を与えられたが,信長没後は豊臣秀吉に従い,83年加賀国石川・河北両郡を加封されて金沢城へ入城。以来14代にわたる。長男利長は関ケ原の戦功により加増され,領地は加賀・越中・能登3国119万2700石余。次代利常は1639年(寛永16)隠居に際して次男利次に富山10万石,三男利治に大聖寺7万石を分与して支藩をたてた。のち藩領は加賀・越中・能登3国内と近江国1郡のうち102万5000石に確定。利常は隠居後も藩政を後見し,改作仕法とよばれる農政改革を実施。給人知行権の抑制や郷村支配機構整備のための諸策が施行され,藩制が確立した。孫の綱紀も利常の政策を推進し,書物の収集・学者の招聘にも努めた。治脩(はるなが)は文武の修業所として明倫堂および経武館を創設し,藩士の子弟のほか庶民へも門戸を開いた。詰席は大廊下。利常以来将軍家から松平姓を許され,また加賀守を官名とした。廃藩後は金沢県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…藩論は圧倒的に佐幕で,14代慶寧(よしやす)は領内自立策をとり,西洋式軍制採用,福祉事業などを行うが,中央情勢に立ちおくれて戊辰の役でかろうじて賊軍の名を逃れた。69年(明治2)金沢藩,71年金沢県となった。【高沢 裕一】。…
…93年(文禄2)利家は次男利政に能登国を分与したが,98年(慶長3)隠居したとき,養老領の内に口郡の1万5000石を含めた。翌年利家が死去して再び利政に戻ったが,利政は1600年関ヶ原の戦で東軍に加わらなかったため封を奪われ,能登一国は兄の加賀藩(金沢藩)2代前田利長に加増された。06年,替地によって土方雄久(ひじかたかつひさ)領1万石が能登に散在して置かれた。…
※「金沢藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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