喜多見重政(読み)きたみ・しげまさ

朝日日本歴史人物事典 「喜多見重政」の解説

喜多見重政

没年元禄6.7.28(1693.8.29)
生年:生年不詳
江戸前期の幕臣,大名。父は石谷武清,母は養父の幕臣喜多見五郎左衛門重恒の娘。寛文12(1672)年に家を継いで1120石を知行し,書院番士となる。延宝8(1680)年中奥番士,次いで小姓に昇り,翌天和1(1681)年従五位下若狭守に叙任され,2000石加増。3年には6800石余を加増されて1万石の大名となり,側用人に昇進した。さらに貞享3(1686)年にも1万石を加増されたが,元禄2(1689)年に所領収公されて桑名藩主に預けられ,配所で没した。これは,才能を認められて抜擢されたにもかかわらず,職務に心を入れなかったためとされているが,分家の刃傷事件に関与したためともいう。

(深井雅海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「喜多見重政」の解説

喜多見重政 きたみ-しげまさ

?-1693 江戸時代前期の大名。
寛文12年書院番。将軍徳川綱吉にとりたてられ側(そば)用人にすすみ,天和(てんな)3年武蔵(むさし)喜多見藩(東京都)藩主となる。元禄(げんろく)2年綱吉の勘気をこうむって除封され桑名藩にあずけられた。元禄6年7月28日死去。狂死とつたえられる。本姓は石谷。

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