桑名藩(読み)くわなはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桑名藩」の意味・わかりやすい解説

桑名藩
くわなはん

江戸時代、伊勢(いせ)国(三重県)桑名周辺を領有した藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍にくみした桑名城主氏家行広(うじいえゆきひろ)(2万5000石)は除封となり、翌年三河の古参の譜代(ふだい)本多忠勝(ほんだただかつ)(12万石)が入封して当藩成立。彼は町割を開始し、いまの桑名市の基盤をつくり、嫡子忠政(ただまさ)に伝えた。忠政の子忠刻(ただとき)は家康の孫千姫(せんひめ)の婿となり化粧料1万石を加増されたが、1617年(元和3)播磨(はりま)姫路(ひめじ)へ移封。かわって家康の異父弟松平(久松)定勝(さだかつ)(11万石)が入封、二男定行(さだゆき)襲封。1634年(寛永11)定行は伊予松山へ移封。かわって定勝の三男松平定綱(さだつな)(11万石、鎮国(ちんこく)公)が美濃(みの)大垣より入封、定良(さだよし)、定重(さだしげ)に伝えた。定重は1657年(明暦3)襲封以来1710年(宝永7)まで長期間治世を行ったが、郡代野村増右衛門(ますえもん)の事件により失政を問われ越後(えちご)高田へ国替(くにがえ)。ついで松平(奥平)忠雅(ただまさ)(10万石)が入封、忠刻、忠啓(ただひら)、忠功(ただかつ)、忠和(ただとも)、忠翼(ただすけ)、忠堯(ただたか)と在封。この間、木曽(きそ)・揖斐(いび)・長良(ながら)3川の宝暦(ほうれき)治水と、天明(てんめい)・文政(ぶんせい)の二大一揆(いっき)が発生した。1823年(文政6)忠堯は武蔵忍(むさしおし)へ転封陸奥(むつ)白河へ移っていた久松松平家の定永(さだなが)(11万石、松平定信(さだのぶ)の子)のとき、ふたたび桑名に入封。藩校立教館を開設。定和(さだかず)、定猷(さだみち)、定敬(さだあき)と続き、定敬は会津藩主松平容保(かたもり)の弟で、1864年(元治1)京都所司代、68年(慶応4)鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いで幕軍として戦い、転戦後箱館(はこだて)に渡った。この間、国元では恭順派が指導権を握り、先代定猷の遺子定教(さだのり)を擁し新政府軍に降(くだ)った。71年(明治4)廃藩、桑名県、安濃津(あのつ)県を経て、三重県に編入。

[原田好雄]

『近藤杢・平岡潤編『桑名市史 本篇・補篇』(1959、60・桑名市教育委員会)』『西羽晃著『桑名歴史散歩』(1974・新光堂書店)』『片山恒斎著『桑名志』(1953・北勢史談会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「桑名藩」の意味・わかりやすい解説

桑名藩 (くわなはん)

伊勢国北東部(北勢)に置かれた藩。しばしば藩主が交替したが,初期の譜代大名のほかは,いずれも家門であり,桑名に居城を持って,桑名・員弁(いなべ)・朝明(あさけ)・三重4郡の10万石余を領知した。それ以前の織豊期は滝川・天野・酒井・石川・丹羽・氏家氏が相ついで入封,1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍にくみして氏家行広(2万2000石)が除封された。翌年上総から入封した本多忠勝(10万石,譜代)は,旧城郭を拡張して町割りをすすめ,城下町桑名の原型をつくった。17年(元和3)本多氏の移封で,山城から松平(久松)定勝が入封(11万石,家門),のちに加封された長島城7000石は,25年(寛永2)定房に分知され長島藩となった。35年定行の移封で,弟の松平(久松)定綱が美濃から入封した(11万石)。定綱は城を増築し,新田開発,用水整備,漕運,植林,殖産などの政策を実施し,藩政を進展させた。1710年(宝永7)定重の移封で,松平(奥平)忠雅が備後から入封(10万石),1823年(文政6)忠尭(ただたか)のとき移封し,松平定信の子定永が奥州白河から入封,久松松平家の復封となった。戊辰戦争では官軍に抗して6万石に減封された。桑名藩の産物には,桑名米,木材,ナタネ油,綿実油,桑名ハマグリ,白魚,海苔,万古焼,瓦,鋳物,農具,包丁,刀剣,桑名盆などがあった。藩領の農民はたびたびの水難と国替のため生活が圧迫され,1782年(天明2)には大洪水が契機となり,1823年には転封が契機となって百姓一揆が起こっている。
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藩名・旧国名がわかる事典 「桑名藩」の解説

くわなはん【桑名藩】

江戸時代伊勢(いせ)国桑名郡桑名(現、三重県桑名市)に藩庁をおいた、初め譜代(ふだい)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は立教館。関ヶ原の戦いの翌1601年(慶長(けいちょう)6)、徳川氏譜代の重臣本多忠勝(ただかつ)が10万石で入り立藩した。2代忠政(ただまさ)のとき、大坂の陣での戦功により、17年(元和(げんな)3)、播磨(はりま)国姫路藩に移封(いほう)となった。以後、家門(かもん)の松平(久松)定勝(さだかつ)(11万石)以下5代、松平(奥平)忠雅(ただまさ)(10万石)以下7代、再度の松平(久松)氏の松平定永(さだなが)(11万3000石)以下5代と親藩が続き、明治維新に至った。幕末の松平(久松)氏4代藩主定敬(さだあき)は佐幕派として活躍、1868年(慶応4)の鳥羽・伏見の戦いのあと、徳川慶喜(よしのぶ)に随行して江戸に行った。藩主不在となった桑名藩は、3代藩主定猷(さだみち)の長男定教(さだのり)を5代藩主として擁立、無血開城して新政府軍に恭順した。しかし、定敬は会津、箱館へと戊辰(ぼしん)戦争を転戦、そのため桑名藩は取り潰された。69年(明治2)に定敬が降伏。桑名藩は6万石で再興を許されたが、71年の廃藩置県で廃藩。桑名県となり、その後、安濃津(あのつ)県を経て翌年三重県に編入された。

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百科事典マイペディア 「桑名藩」の意味・わかりやすい解説

桑名藩【くわなはん】

伊勢(いせ)国桑名に藩庁をおいた。藩主は譜代(ふだい)の本多氏,家門(かもん)の松平(久松)氏・松平(奥平)氏・松平(久松)氏と変遷。領知高は伊勢国桑名・員弁(いなべ)など4郡でほぼ10万石。
→関連項目伊勢国鳥羽・伏見の戦沼田藩

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桑名藩」の意味・わかりやすい解説

桑名藩
くわなはん

江戸時代,伊勢国 (三重県) 桑名郡の一部を領有した藩。氏家氏の2万 2000石に始り,本多氏 10万石,松平 (久松) 氏 14万石,松平 (久松) 氏 11万石,松平 (奥平) 氏 10万石,松平 (久松) 氏 11万石と家門出身が多い。幕末には,京都所司代として兄の会津藩主松平容保 (かたもり) とともに活躍した松平定敬 (さだあき。6万石) がいる。松平 (久松) 氏は家門,江戸城溜間詰。

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旺文社日本史事典 三訂版 「桑名藩」の解説

桑名藩
くわなはん

江戸時代,三重県北部を領有した藩
関ケ原の戦い後,本多忠勝が15万石で就封。以後久松・奥平,再び久松氏が入封し,明治維新に至る。幕末,藩主久松定敬は京都所司代となり,戊辰 (ぼしん) 戦争では佐幕諸藩の中核として会津藩とともに活躍。官軍に抗し6万石に減封された。

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デジタル大辞泉プラス 「桑名藩」の解説

桑名藩

伊勢国、桑名(現:三重県桑名市)周辺を領有した藩。関ヶ原の戦いで西軍についた桑名城主・氏家行広が除封され、本多忠勝が10万石で入封、城下町の基礎をつくった。以後の藩主は、松平(久松)氏、松平(奥平)氏。

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