日本大百科全書(ニッポニカ) 「そば」の意味・わかりやすい解説
そば
そば / 蕎麦
そば粉を主原料にした食品。一般にはそば粉を水でこねて薄く伸ばし、細く切った麺(めん)(そば切り)をさす。ソバは中国が原産地で、朝鮮半島を経て日本へ渡来し、各地で栽培されるようになった。渡来の時期は古く、縄文晩期ともいわれる。現在では世界中で広く栽培されている。ヨーロッパへの伝来は14世紀以降で、パンなどにそばの粉を混ぜて用いられた。日本では奈良時代すでにそばが用いられていたことが記録にみえる。『続日本紀(しょくにほんぎ)』養老(ようろう)6年(722)条に、夏、干魃(かんばつ)で大飢饉(ききん)になったため、晩禾(ばんか)(晩稲)や大小麦とともにソバを植えることを命じた、とあるのがそれである。また、『続日本後紀(しょくにほんこうき)』承和(じょうわ)6年(839)条にも、非常の作物としてソバを植えるようにとの命が出たとあり、ソバは古くから救荒作物として栽培されていた。日本におけるソバの最初の栽培地は滋賀県の伊吹山付近といわれ、ここから順次東へ広がった。そして、岐阜、長野、山梨の各県などで栽培が盛んになり、今日では信州が名産地として有名である。このほか、各地に数多くのソバの産地があり、土地の名を冠したものが食べられているが、五穀のように常食はしていなかったようである。そばは粒状のむきそば、およびそば粉が食用として用いられる。
そば粉
ソバの種実を挽(ひ)いて、中の胚乳(はいにゅう)部を粉にしたのがそば粉である。ソバの製粉は外皮を除いたのち、石臼(いしうす)にかけて粉砕する。通常は甘皮も除去して製粉する。小麦製粉用の小型ローラーなども用いられている。原料ソバに対し、粉の歩留りは70~75%ほどである。歩留りを高くするほど粉は黒くなるが、風味はかえってよいといわれる。ソバの種実のいちばん中心部だけを挽いたものが一番粉(こ)で、色もそば粉のなかでいちばん白い。この粉のことを「さらしな」(新しい品物の意)ともよんでいる。これに更科(さらしな)と字をあて、そば店の屋号によく使われる。一番粉をとるためには、臼の間にいくらかすきまをあけておく。一番粉をふるい分けてとった残りは、さらに臼の目をつめて挽き、二番粉をとる。また、「挽きぐるみ」というのがあるが、これは外皮をとっただけで粉全体を挽いたもので、色が黒っぽい。出雲(いずも)そば、出石(いずし)そばなどにはこのようなそば粉が使われる。
[河野友美・大滝 緑]
そば切り(そば)
日本でもっとも多いそば粉の利用はそば切りである。そば粉をこねて薄く伸ばし、細く切ったものをそば切りとよんでいる。これを略して、そばという。そば粉だけでは麺状にうまくつなぎにくいので、普通は小麦粉をつなぎに用いる。そのほか、ヤマノイモ、卵白などもつなぎに使われる。また、挽茶、ごま、ゆずなどを加えた各種のそば切りもつくられている。挽茶を加えたものはとくに茶そばという。
そば切りの始まりは、天正(てんしょう)年間(1573~1592)であるとされている。一説によれば、江戸初期に朝鮮半島から渡ってきた僧の元珍が、南都の東大寺にきて、そばのつなぎに小麦粉を加えることを教え、初めてそばでつくった麺ができあがったという。そば麺は、平たく伸ばした生地(きじ)を何枚にも畳み、端から細くそば切り包丁で切ったので「そば切り」の名がある。そば切りの技術は、奈良から木曽路(きそじ)を経て江戸に入った。寛永(かんえい)(1624~1644)の末ごろには辻(つじ)売りが現れ、1664年(寛文4)には吉原で「けんどんそば切り」が売られ、18世紀初めごろには、そば店が江戸の町の各所にみられるようになった。とくに、江戸末期には非常に多くのそば店があり、「更科」や「藪(やぶ)」の名のつく店が多数できた。「更科」は江戸麻布(あざぶ)(港区)の永坂にできた「信州更科蕎麦所」と看板を掲げた店が最初で、産地からの直接販売を売り物にしたのがはやり、江戸全体に広がったといわれる。一方、「藪」のほうは、雑司ヶ谷(ぞうしがや)鬼子母神(きしもじん)門前や本郷団子坂の藪蕎麦が知られ、通人の通う所には「藪」が多いというところからきたという。
そばのつなぎが次々と研究された結果、二八(にはち)そばといって、つなぎの小麦粉二にそば粉八といったものから、三七、四六、半々、外(そと)二、外三などが考案された。外三というのは、そば粉に対して小麦粉3割という意味である。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』では、二八そばの名は、1人前が16文(もん)(2×8=16)であったためにしゃれていったものだとしている。また引っ越しそばは、「そばのように末長いつきあいを」という意味を込めている。
そば切りは、ゆでたあと、いろいろな方法で食べる。大きく分けると、「もり」と「かけ」あるいは汁そばに分かれる。「もり」は、そば切りをゆでて、蒸籠(せいろう)あるいは竹簀(たけす)の上に盛って出し、つゆをつけて食べる。そば本来の風味をもっともよく生かせる食べ方で、つゆのくふうによりそばの味が生きる。「かけ」は、汁をかけたところからきたもので、汁そばである。これには種類が多く、てんぷら、おかめ、月見、鴨南蛮(かもなんばん)、納豆(なっとう)、花巻き、卵とじ、たぬきなどがある。そのほかそば切りの食べ方としては、そばずし、そばサラダなどがある。
そばには名物になっているものが多い。もっとも有名なものには信州そば(長野県)、出雲そば(島根県)などがあるが、そのほか、わんこ(岩手県)、白河(福島県)、御岳(みたけ)(山梨県)、出石(いずし)(兵庫県)、日吉(ひよし)(滋賀県)なども古くから知られている。
そば切りを乾燥させたものに、干しそばがある。干しそばは、日本農林規格(JAS(ジャス))で、そば粉が30%以上使用されているものでないと、そばの名称をつけることができない。
[河野友美・大滝 緑]
その他の食用
むきそばはソバの種実の外皮をむいたもので、そば飯やそば汁にして食べる。そば飯は、ぽろぽろする程度に固く炊いた米飯に、そばの粒を加えて混ぜ、蒸したものである。そば汁は、煮たむきそばを、だしにしょうゆなどで調味したものの中に入れ、軽く煮たものである。
そば粉を使ったものでは、そばがきがある。そば粉に熱湯を加えながら箸(はし)で強くかいたもので、普通はしょうゆを少しつけて食べる。これをつくるとき用いる茶碗(ちゃわん)は、十分に熱湯を注いで温め、用いる湯はよく沸騰している必要がある。また、鍋(なべ)に水溶きしたそば粉を入れて火にかけ、絶えずかき回しながら火が通るまでよく練ってもよい。調味はしょうゆだけでもよいが、これにおろし大根や刻みねぎなどを薬味として添えてもよい。また、しょうゆに水溶きした葛粉(くずこ)を加え、薄あん状にしたものをかけて供することもある。
そば餅(もち)は半生菓子で、そば粉と小麦粉を練って皮をつくり、中に餡(あん)を入れて焼いたもの。
そばボーロは、そば粉を原料にした焼き菓子で、京都の銘菓の一つである。軽くて香ばしく歯あたりがよい。卵と砂糖を混ぜたところへ、そば粉、小麦粉をふるい込み、伸ばして型抜きし、オーブンで焼き上げる。
そばまんじゅうは、そば粉、ヤマノイモ、新粉(しんこ)(米の粉)などを混ぜてつくった皮に餡を包んだまんじゅうである。長野県木曽(きそ)福島のそばまんじゅうは、そばの香りが高く、地方銘菓の一つである。
そば落雁(らくがん)は、そば粉を主材料にしてつくった落雁である。そのほか、そば粉を主材料にした煎餅(せんべい)の一種で、長さ4センチメートルくらいの長方形で、表面にごまがふりかけてあるそば板もある。
[河野友美・大滝 緑]
栄養
そばは、昔から健康によい食品といわれてきた。そばの効用について、『本朝食鑑』(1697)では、「気味甘く、微寒にして毒なし、気を降し、腸胃の滓穢積滞(しわいせきたい)を寛(つまびらか)にす。水腫(すいしゅ)・白濁・泄痢(せつり)・腹痛・上気を治し、或(ある)いは気盛んにして湿熱ある者によろし」とある。
そば粉にはタンパク質が6~15%ぐらい含まれている。内層粉では6%と低いが、表層粉では15%と高くなっている。このタンパク質は必須アミノ酸のバランスがよく、とくに穀物中では珍しく、リジン含量が多いのでたいへん質のよいものである。また、ビタミンB1、鉄、カリウムが多い。こういったことが効用のある食品とされ、また、備荒食品としても価値が高かった理由であると考えられる。ただし、そば切りにして小麦粉を多く混合したものでは、先にあげた栄養成分は大幅に下がる。なお、そばは、アレルギーをおこしやすい食品のうち症状の重篤度が高いため、加工食品については、原材料として当食品を含む場合は、その旨を表示することが食品衛生法により2002年(平成14)4月から義務づけられている。
[河野友美・大滝 緑]
語源と民俗
ソバの語源は、ソバの果実に三つの稜(りょう)があり、ムギと対比するとその点が大きく異なるので、古くはソバムギとよばれた(『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』『本草和名(ほんぞうわみょう)』)。命名からして、その渡来はムギより遅い。徳島県の祖谷(いや)など山間地方では「そば米」がつくられている。ソバの果実を煮て、数日間干し、脱粒した一種の糒(ほしいい)で、ハレの日の雑炊や吸い物などに使われる。そば米は、ソバの粉食やそば切りが普及する前の粒食の痕跡(こんせき)をとどめているとの見解がある。中国原産だが、現存する中国最古の農書『斉民(せいみん)要術』(6世紀)には、蕎麦(そば)が巻頭雑説に取り上げられているにすぎず、本文には記載がない。南北朝時代にはまだ普及していなかったと考えられる。
年越そばの起源にはいくつかの説がある。月末の晦日(みそか)が夜遅くまで忙しい商家で、夜食にそばを食べた習慣に基づくという説、金箔師(きんぱくし)が金銀細工の際、そば粉を打って伸ばし、飛び散った金銀の粉を吸着させたのにちなみ、金銀が集まる縁起を担いだとか、そば殻を焼いた灰で使い古した器を洗うと長年の汚れがよく落ちることや、胃腸のかすを流すそばの効用から、旧年の穢(けがれ)を落とす、あるいはそばがよく延びるので、年を延ばし幸福にという縁起を込めたなどの諸説である。つごもりそば、運気そば、運そばなどともよぶ。
そば屋の屋号に使われる「庵(あん)」は、江戸浅草の日輪寺(にちりんじ)の隣に遊称院(ゆうしょういん)という浄土宗の寺があり、そこの道光庵(どうこうあん)主が手打つそばの味が優れ、人気があったことにあやかったものという。現在そのゆかりの称往院(世田谷区北烏山(きたからすやま))には、そば禁制の碑があり、「不許蕎麦入境内地中製之而乱当院之清規故」と記されている。評判で寺がそば屋のようになったのを戒めて立てられた。
[湯浅浩史]
『日本麺類業組合連合会編『日本の蕎麦』(1981・毎日新聞社)』▽『長友大著『ソバの科学』(1984・新潮社)』▽『新島繁・薩摩夘一著『蕎麦の世界』(1985・柴田書店)』▽『植原路郎著『蕎麦辞典 改訂新版』(2002・東京堂出版)』▽『新島繁著『蕎麦年代記』(2002・柴田書店)』▽『鈴木啓之著『そばの歴史を旅する』(2005・柴田書店)』