太田康有(読み)おおた・やすあり

朝日日本歴史人物事典 「太田康有」の解説

太田康有

没年正応3.5.11(1290.6.19)
生年:安貞2(1228)
鎌倉後期,幕府問注所執事や評定衆などを務めた実務家。本姓三善。康連の子,康宗の弟。弘長2(1262)年,兄康宗が中風で籠居したあとを襲って問注所執事の職に就き,また評定衆に加えられた。同年勘解由判官,弘安3(1280)年には美作守に任ぜられて叙爵したが,弘安5年12月,寄合の席上中風で倒れて以後籠居し,翌年6月には問注所執事の職を子の時連に譲り,出家して法名を善有と称した。以後,幕府官僚としての太田氏の地位は康有の子孫に相承された。問注所執事としての職務上の記録に『建治三年記』がある。<参考文献>竜粛鎌倉時代』上

(新田一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「太田康有」の解説

太田康有 おおた-やすあり

1228-1290 鎌倉時代の幕府官僚。
安貞2年生まれ。三善康連(やすつら)の7男。弘長(こうちょう)2年兄太田康宗(やすむね)の跡をつぎ問注所執事となり,評定衆もかね,在職は21年におよんだ。弘安(こうあん)3年美作守(みまさかのかみ)。公用日記「建治(けんじ)三年記」(「太田康有日記」)をのこしている。正応(しょうおう)3年5月11日死去。63歳。通称七郎。法号は善有。

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