浅原為頼(読み)あさはらためより

精選版 日本国語大辞典 「浅原為頼」の意味・読み・例文・類語

あさはら‐ためより【浅原為頼】

  1. 鎌倉中期の武士宮中に侵入し伏見天皇を殺そうとしたが果たせず、自刃したという。正応三年(一二九〇)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「浅原為頼」の意味・わかりやすい解説

浅原為頼 (あさはらためより)
生没年:?-1290(正応3)

鎌倉後期の武士。甲斐源氏小笠原氏の一族といわれる。弘安合戦で安達泰盛方につき,その後諸国を流浪して悪党化していた。1290年3月9日,子息等とともに内裏乱入し,伏見天皇皇太子殺害を企てたが,阻まれて清涼殿の天皇の褥(しとね)の上で自殺した。事件真相は不明だが,皇位継承をめぐる大覚寺統持明院統との対立に関連することは確実である。
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朝日日本歴史人物事典 「浅原為頼」の解説

浅原為頼

没年:正応3.3.9(1290.4.19)
生年:生年不詳
鎌倉後期の武士。甲斐源氏小笠原の一族。強弓をよくする勇猛な武士であったが,所領を失って悪党化したため,追捕の対象者として指名手配されていた。正応3(1290)年3月9日夜,息子らと内裏に侵入して伏見天皇と皇太子の所在を求めた。しかし,天皇は女装して春日殿に逃れた。所在探索に失敗した為頼らは,知らせで馳せつけた篝屋役の武士らに包囲され,清涼殿で自害した。事件の背後関係は複雑で,皇位継承に不満を持つ亀山法皇がかかわっているのではないかとうわさされたため,法皇は北条貞時に告文を送って事件との関係を否定している。

(佐藤和彦)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅原為頼」の意味・わかりやすい解説

浅原為頼
あさはらためより
(?―1290)

鎌倉後期の武士。通称八郎。甲斐源氏(かいげんじ)小笠原(おがさわら)氏の支族。強弓大力の武士で、1290年(正応3)3月10日早朝、一族郎従を率いて宮中に乱入し、伏見(ふしみ)天皇を殺害しようとして果たさず、清涼殿で自殺した。為頼が事を起こした動機は明らかでないが、大覚寺(だいかくじ)、持明院(じみょういん)両統の抗争に絡むものとの見方がある。当時も皇位継承に不満をもつ大覚寺統の亀山(かめやま)法皇がこの事件に関係ありとのうわさが流れたが、法皇は幕府に、事件に関係がない旨の誓紙を入れて、事なきを得た。

[新田英治]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅原為頼」の解説

浅原為頼 あさはら-ためより

?-1290 鎌倉時代の武士。
甲斐(かい)源氏小笠原氏の一族。正応(しょうおう)3年3月,息子らと宮中に乱入して伏見天皇と皇太子を殺そうとしてはたせず,自害した。皇位継承をめぐる大覚寺統と持明院統との対立に関連する事件とみられている。通称は八郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅原為頼」の意味・わかりやすい解説

浅原為頼
あさはらためより

[生]?
[没]正応3(1290).3.10. 京都
鎌倉時代後期の武士。甲斐源氏小笠原氏の一族。伏見天皇を殺そうと宮中に乱入,自殺。動機は不明だが,持明院・大覚寺両統対立の余波かと考えられている。

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