叡尊(読み)エイゾン

デジタル大辞泉 「叡尊」の意味・読み・例文・類語

えいぞん【叡尊/睿尊】

[1201~1290]鎌倉中期の律宗の僧。大和の人。戒律の復興に努め、律宗の中興。貧民・病人の救済や殺生禁断に功績があり、また蒙古襲来神風を祈願。西大寺を再興。著「感身学正記」など。興正菩薩こうしょうぼさつ

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精選版 日本国語大辞典 「叡尊」の意味・読み・例文・類語

えいぞん【叡尊・睿尊】

  1. 鎌倉中期の僧。真言律宗中興の祖。諡(おくりな)興正菩薩。はじめ密教を学び、のち西大寺に住んで律宗を研究。著「梵網経古迹記輔行文集(ぼんもうきょうこしゃくきぶぎょうもんじゅう)」など。建仁元~正応三年(一二〇一‐九〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「叡尊」の意味・わかりやすい解説

叡尊(えいぞん)
えいぞん
(1201―1290)

鎌倉中期の律宗(りっしゅう)の僧。姓は源氏。大和(やまと)国(奈良県)添上(そうのかみ)郡箕田(みのた)の人。字(あざな)は思円(しえん)。諱(いみな)は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。11歳で醍醐寺(だいごじ)睿賢(えいけん)に師事した。その後、恵操(えそう)、信経(しんぎょう)らに密教、唯識(ゆいしき)を学んだが、空海(くうかい)の遺誡(いかい)を読み、戒律(かいりつ)による衆生済度(しゅじょうさいど)を決意して、戒如(かいにょ)(生没年不詳)、覚証(かくしょう)らに戒律を学ぶ。36歳のとき、東大寺大仏殿で覚盛(かくじょう)らと自誓受戒(じせいじゅかい)したのち、西大寺を拠点に各地で授戒した。また、殺生(せっしょう)禁断、慈善事業を行い、文殊(もんじゅ)信仰による非人(ひにん)救済も積極的に推進した。1262年(弘長2)北条実時(ほうじょうさねとき)招請によって鎌倉を教化、蒙古(もうこ)襲来における祈祷(きとう)、光明真言会(こうみょうしんごんえ)の興行を行って西大寺流の顕揚と発展を促した。著書には自叙伝『感身学正記(かんじんがくしょうき)』や『梵網経古迹記文集(ぼんもうきょうこじゃくきもんじゅう)』『表無表章文集(ひょうむひょうしょうもんじゅう)』などがあり、『菩薩戒本宗要(ぼさつかいほんしゅうよう)』などの開板(かいばん)もしている。正応(しょうおう)3年8月25日、90歳で西大寺に没す。

[納冨常天 2017年5月19日]

『和島芳男著『叡尊・忍性』(1959/新装版・1988・吉川弘文館)』『奈良国立文化財研究所監修『西大寺叡尊伝記集成』(1956・大谷出版社/複製・1977・法蔵館)』


叡尊(えいそん)
えいそん

叡尊

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朝日日本歴史人物事典 「叡尊」の解説

叡尊

没年:正応3.8.25(1290.9.29)
生年:建仁1.5(1201)
鎌倉時代の律宗の僧。西大寺の中興開山。字は思円房。興福寺の学侶慶玄の子として大和国(奈良県)に生まれる。母は藤原氏。承元1(1207)年,7歳で母を失ったため,醍醐寺門前の家の養子となり,その縁で醍醐寺に入って建保5(1217)年,17歳で醍醐寺叡賢を師として出家した。以後,醍醐寺,高野山,東大寺などで真言密教を学ぶが,文暦1(1234)年,真言密教の行者が多く魔道に堕ちていることに疑問を抱き,その理由は戒律を保っていないことにあると結論して戒律の復興を志すに至った。嘉禎2(1236)年9月,覚盛,円晴,有厳と共に東大寺法華堂で自誓受戒をし,好夢を感じて比丘となった。大和海竜王寺を経て,暦仁1(1238)年,西大寺に住み,以後そこを拠点として戒律の普及に勤めるとともに,中世に社会体制の外部に排除,疎外された非人救済運動も展開した。 彼の非人救済は,非人を文殊菩薩の化身とみなして非人施行を行うもので,その最大のものといえるのが,文永6(1269)年3月25日に奈良坂の中腹にある般若寺文殊菩薩像の完成を記念して,非人2000人を集めて行われた非人供養である。この際には文殊の化身に見立てた非人ひとりひとりに斎戒を授けるとともに,米などの食糧や,浅鍋などのこじきの道具類が施行された。しかし,叡尊は非人を聖なる文殊の化身とみなす一方,このとき作成した願文で,盲目の人,聾唖者や「癩病」に罹って非人となった人々は,前世大乗仏教を誹謗した罪でこれらの病に罹ったのだと述べるなど,その非人観は多分にアンビバレントなものであった。弘長2(1262)年には鎌倉幕府の北条時頼の招きで鎌倉にも下向した。蒙古襲来を契機として,聖朝安穏のため,伊勢神宮や石清水八幡宮に詣でて異国降伏の祈祷も行った。弘安9(1286)年には,宇治川の網代破却による殺生禁断を実行することを条件として,宇治橋を再興するなど,勧進,修造活動にも活躍した。<参考文献>奈良国立文化財研究所監修『西大寺叡尊伝記集成』,和島芳男『叡尊・忍性』

(細川涼一)

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百科事典マイペディア 「叡尊」の意味・わかりやすい解説

叡尊【えいぞん】

鎌倉時代,律宗中興の祖,西大寺の律僧。戒律の荒廃を嘆じ,1235年円晴(えんせい)が東大寺で〈四分律行事鈔〉を講ずるのを聞き,自誓受戒して戒律の復興に努めた。受戒のものは非人,乞食にまで及んだという。弟子の忍性(にんしょう)と救済事業にも尽くした。諡(おくりな)は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。睿尊とも書く。自叙伝《感身学正(かんじょうがくしょう)記》,旅行記《関東往還記》などの著作がある。
→関連項目安東蓮聖宇治橋鎌倉仏教善円般若寺渡辺津

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改訂新版 世界大百科事典 「叡尊」の意味・わかりやすい解説

叡尊 (えいそん)
生没年:1201-90(建仁1-正応3)

鎌倉中期の律宗の僧侶。字は思円,諡(おくりな)は興正菩薩。興福寺学侶慶玄の子として大和国添上郡箕田郷に生まれ,17歳で出家。最初密教を学び,その後衰えていた戒律の復興を志し,1235年(嘉禎1)大和国西大寺に移る。翌年円晴・覚盛らとともに自誓受戒をした後,西大寺を本拠として戒律の復興に尽力する。朝野の帰依を受け,62年(弘長2)北条時頼・実時に招かれて鎌倉に下り,北条一族,御家人などに授戒を行った。また蒙古襲来の際には,朝命により敵国降伏を祈った。一方,弟子忍性(にんしよう)とともに奈良北山宿をはじめとする宿々に文殊菩薩像を置いて文殊供養や施食を行うなど,非人救済とその編成に努めるとともに,各地において殺生禁断や架橋などの事業も行った。著作には自叙伝《感身学正記》,旅行記《関東往還記》,ほかに《梵網経古迹記輔行文集》などがある。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「叡尊」の解説

叡尊
えいぞん

1201.5.-~90.8.25

鎌倉中期の律宗の僧。字は思円(しえん)。諡号は興正菩薩。戒律を復興し奈良西大寺の中興開山として知られる。大和国生れ。父は興福寺の学侶慶玄。17歳で醍醐寺の阿闍梨(あじゃり)叡賢を師として出家。のち高野山に上り,1235年(嘉禎元)戒律復興を志し西大寺宝塔院持斎僧となる。36年覚盛(かくじょう)・円晴(えんせい)・有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒し,海竜王寺をへて翌年西大寺に還住(げんじゅう)して結界(けっかい),律宗が復活した。授戒・文殊供養・光明真言などの宗教行為による殺生禁断・慈善救済・土木事業などを行い,非人・癩者から後嵯峨・亀山・後深草3上皇にいたる幅広い帰依を得た。著書「感身(かんじん)学正記」「梵網経古迹記(ぼんもうきょうこしゃくき)輔行文集」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「叡尊」の解説

叡尊 えいそん

1201-1290 鎌倉時代の僧。
建仁(けんにん)元年5月生まれ。律宗。京都醍醐(だいご)寺で出家し真言をまなぶが,戒律の復興をめざして戒如に師事。嘉禎(かてい)2年覚盛(かくじょう)らと東大寺で自誓受戒し,大和(奈良県)西大寺を拠点に各地で授戒。後深草上皇や北条氏らの帰依(きえ)をうける。殺生を禁じ,橋の修復などをおこない,貧民救済に尽力した。正応(しょうおう)3年8月25日死去。90歳。大和出身。字(あざな)は思円。諡号(しごう)は興正菩薩。名は「えいぞん」ともよむ。著作に「感身学正記」「関東往還記」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「叡尊」の意味・わかりやすい解説

叡尊
えいぞん

[生]建仁1(1201).5. 大和
[没]正応3(1290).8.25. 大和
鎌倉時代の律宗の僧。字は思円。諡号は興正菩薩。律宗中興の祖。西大寺で受戒し,戒律によって非人,乞食の救済を志し6万人余に授戒したという。著書に『梵網古迹文集』 (10巻) ,『感身学正記』 (3巻) などがある。弘安4 (1281) 年の蒙古来襲時に神風を祈願したことでも知られている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「叡尊」の解説

叡尊
えいそん

1201〜90
鎌倉時代の律宗の僧
興正菩薩 (こうしようぼさつ) という。大和の人。初め密教を学んだが,戒律の退廃を憂い,西大寺を再興して戒律復興に尽くした。また執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り,広く公武貴賤に戒を授け律を講じた。戒律によって下層民を救済することが彼の念願であり,非人を救済し,殺生の禁断を勧めるなど社会事業的な活動も行った。

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世界大百科事典(旧版)内の叡尊の言及

【網代】より

…この長者に率いられる真木島贄人・供祭人は,天皇だけでなく,賀茂社,鴨社,春日社,松尾社,左久奈度社にも供祭物を貢献している。殺生禁断に伴う網代の破却は,1114年(永久2)から見られるが,1285年(弘安8)の叡尊の申請による破却は徹底したものであった。その後,1314年(正和3)に曾束荘民は網代を構えているが(《禅定寺文書》),網代はしだいに衰滅し,真木嶋氏は宇治川の交通路を押さえる有力な一族として戦国期まで勢威を保った。…

【鎌倉時代美術】より

…これにともなう美術作品の担い手はおもに奈良地方に残留していた作家たちと見られ,彫刻では自らも敬虔な仏教者であったいわゆる善派の人たちが著名である。特に西大寺叡尊との関係が指摘され,同寺の愛染明王像(1247,善円作),清凉寺式釈迦像(1249,善慶作),叡尊像(1280,善春作)など,中・後期の代表作を生んでいる。奈良の地は都が京都に移って以来ずっと独特の保守性を堅持してきており,その根底には奈良時代以来の美術の伝統が継続している。…

【関東往還記】より

…大和国西大寺律僧叡尊(えいそん)が1262年(弘長2)北条時頼・実時に招かれて鎌倉へ下向した時の日記。筆録者は従者性海。…

【西大寺】より

かに存するところは食堂・四王堂のみ〉(《七大寺巡礼私記》)といわれた。鎌倉時代にはいり,1235年(嘉禎1)5月に入寺した叡尊により,戒律復興と当寺の再興が行われた。叡尊は戒律の復興を果たさんがために諸種の版経を開版,いわゆる西大寺版を印行し,子弟教育に当たった。…

【慈善事業】より

…この往生祈願のために貧者・非人供養を行うという浄土教の考えは貴族の間にも流行し,たとえば1027年(万寿4)の藤原道長の葬送に際しては,悲田院病者・六波羅蜜乞者(のちの清水坂非人)に米・魚・海藻などが施行されている。 しかし,中世における慈善事業の白眉ともいうべきは,非人を文殊菩薩の化身とみなすことでこれを供養した,西大寺叡尊や極楽寺忍性(にんしよう)を中心とする鎌倉時代後期の律僧の宗教的非人救済運動であろう。思円房叡尊は,1240年(仁治1)に大和額田部宿で非人供養を行ったのを皮切りに,大和・河内・和泉の諸非人宿において非人に施行をし,彼らに斎戒を授けてその日常生活をも統制することで非人供養を行った。…

【真言律宗】より

…奈良西大寺を総本山とする宗派。宗祖は弘法大師空海,派祖は興正菩薩叡尊(えいそん)。真言宗の教義に基づいて小乗戒・三昧耶(さんまや)戒の大小乗戒を遵守することを本旨とする。…

【殺生禁断】より

…ところが殺生禁断のなかには魚をその対象とするものもあって,これは不殺生戒の功徳を目的にしたものである。たとえば1281年(弘安4),律僧叡尊(えいそん)(興正菩薩)は宇治平等院で漁民800余人に菩薩戒を授戒するとともに,宇治橋南北の網代(あじろ)を停止する殺生禁断を上奏して許された。その禁制のしるしとして宇治川の中州に建てた十三重石塔が現存する。…

【善派】より

…善円(生没年不詳),善慶(?‐1257)など善の一字を付した名の人物たちなのでこうよばれている。この一派は西大寺中興の叡尊と深い関係があったらしく,善円作の愛染明王像,善慶作の釈迦如来立像など西大寺の像は叡尊の発願で造立され,善慶の子善春(生没年不詳)は80歳の叡尊像(1280)を製作している。同じ奈良仏師として慶派につながる作風を示しながらも多少異なっており,藤原彫刻の名残ともいうべき風をも見せている。…

【律宗】より

…律令制度の崩壊とともに,登壇受戒や持律の制は顧みられなくなり,律宗は衰微の一途をたどった。しかし平安時代末期にいたり,実範や貞慶(じようけい),明恵,戒如(かいによ)などにより戒律復興の気運が高まり,唐招提寺覚盛(かくじよう),西大寺叡尊,不空院円晴により律宗再興がはかられた。一方,1211年(建暦1)に入宋求法より帰国した泉涌寺の俊芿(しゆんじよう)は中国直伝の律書とともに律宗を伝え,泉涌寺を天台・禅・律3宗兼学の道場として律宗の復興をはかり,後鳥羽天皇,藤原道家,北条泰時をはじめ朝野の帰依をうけた。…

※「叡尊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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