小塚秀得(読み)こづか・ひでのり

朝日日本歴史人物事典 「小塚秀得」の解説

小塚秀得

没年:安政6.12(1859)
生年天明5(1785)
江戸後期,加賀国(石川県)大聖寺藩士。藩の殖産政策に尽くし地誌『江沼志稿』を独力で完成させた篤学。通称藤十郎。山本新五左衛門の3男に生まれ,小塚藤蔵の養子となる。禄130石。殖産の一環として樹木栽培奨励を献策し,文政7(1824)年植物方奉行に任命され,引き続き松奉行,用水奉行,産物方引請などの職に就き,土質調査,植樹督励に従事,林業の育成に尽力した。天保初年藩主前田利之の命によって『江沼志稿』編纂に従事。その後藩主の交代などにより中断したが弘化1(1844)年,秀得は独力でこれを仕上げた。<参考文献>『大聖寺藩史』『加能郷土辞彙

(木越隆三)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小塚秀得」の解説

小塚秀得 こづか-ひでのり

1785-1859 江戸時代後期の武士,植林家。
天明5年生まれ。加賀(石川県)大聖寺(だいしょうじ)藩士。藩に植林の重要性を説き,文政7年(1824)植物方奉行に任命される。領内の日本海海岸に39年間で約35万本の松をうえ,防風林をつくった。安政6年12月死去。75歳。本姓は山本。通称は藤十郎。号は清風編著に「加賀江沼志稿」など。

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