摂津親鑒(読み)せっつのちかあき

朝日日本歴史人物事典 「摂津親鑒」の解説

摂津親鑒

没年正慶2/元弘3.5.22(1333.7.4)
生年:生年不詳
鎌倉幕府評定衆越訴奉行藤原親致の子。嘉元3(1305)年,正和3(1314)年に越訴奉行に在任していたことが確認される。正和4年6月,同年3月8日夜に焼失した鶴岡八幡宮造営の大奉行となる。同年,太田時連に添えられて問注所執事となる。文保の和談(1317)では,鎌倉意向朝廷に伝える使節として上洛。その後,正中2(1325)年には,御所奉行の在任が確認される。嘉暦1(1326)年3月の評定に,評定衆としてみえる。また,この時期に出家し,法名を道準と称した。翌嘉暦2年には引付頭人となる。元弘1(1331)年の引付改編では,引付頭人から外れた。<参考文献>佐藤進一「鎌倉幕府職員表復原の試み」(『中央大学文学部紀要/史学科篇』28~30,32号)

(永井晋)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「摂津親鑒」の解説

摂津親鑒 せっつの-ちかあき

?-1333 鎌倉時代武将
摂津親致(ちかむね)の子。嘉暦(かりゃく)元年鎌倉幕府の評定衆,翌年引付頭人(ひきつけとうにん)となる。幕府滅亡のときの正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年5月22日北条高時とともに鎌倉東勝寺で自刃(じじん)。名は「ちかみ」ともよむ。

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