文室宮田麻呂(読み)ふんやのみやたまろ

朝日日本歴史人物事典 「文室宮田麻呂」の解説

文室宮田麻呂

生年生没年不詳
平安前期の官人。承和6(839)年従五位上,翌7年筑前守。もっとも同9年には前筑前守となっており,この間任を離れているが,そのまま現地にとどまり,来日中の新羅の廻易使李忠らと折衝している。翌10年,従者の陽侯氏雄から謀反を企てていると密告されたのは,この新羅使との接触がかかわっているか。京および難波宅の捜索を受け,兵具を押収されて伊豆に配流,子の忠基(佐渡),安恒(土佐)らもそれぞれ流されている。真相は不明だが,貞観5(863)年5月に行われた神泉苑御霊会では祭神(怨霊)五柱のひとりとされており,当時の人々が宮田麻呂に同情的であったことがうかがわれる。近江国にも家10区の他水田数十町を所有しており,中下級貴族の財産所有の一端が知られる。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「文室宮田麻呂」の解説

文室宮田麻呂 ふんやの-みやたまろ

?-? 平安時代前期の官吏
承和(じょうわ)7年(840)筑前守(ちくぜんのかみ)となり,新羅(しらぎ)(朝鮮)の商人張宝高と交易をおこなう。のち筑前守を解任され,10年には反乱をくわだてたとして伊豆(いず)に流された。貞観(じょうがん)5年の御霊会(ごりょうえ)では御霊祭神としてまつられた。

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