新羅使(読み)しらぎし

山川 日本史小辞典 改訂新版 「新羅使」の解説

新羅使
しらぎし

古代朝鮮半島にあった新羅国から日本に派遣された外交使節。初見は「日本書紀」神功皇后5年の汙礼斯伐(うれしほつ)で,「日本書紀」には大化前代姓名不詳の者をあわせて30例余がみえる。6~7世紀には金春秋(きんしゅんじゅう)らの有力者も来朝した。唐帝国の勢力拡張に共同で対抗するために統一新羅側が日本に譲歩したらしく,頻繁な来朝があった。8世紀になると,日本は新羅を従属国とみようとしたため,新羅との間に緊張がうまれた。王子と称する金泰廉(きんたいれん)の来朝(752年)や交易などもみられたが,しだいに疎遠となり,9世紀初めには公式使節の来日は途絶えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新羅使」の意味・わかりやすい解説

新羅使
しらぎし

新羅 (しらぎ) からの使者のことで,8,9世紀には 20回を数え,日本からの遣新羅使は 17回に及んだ。その数は遣唐使の回数をはるかに超え,大陸の文物の主な輸入ルートであった。8世紀には7世紀以来の新羅朝貢を継続しようとする朝廷と対等を求める新羅との政治対立が続いたが,商業上の利益を重視する新羅の柔軟策で両国貿易は発展した。新羅のもたらした物産は,人参・松の実,蜂蜜や食器,絨緞 (じゅうたん) などの新羅製品に加え,中国・西域・南海産などの香料顔料染料や薬品類などに及んだ。しかし両国関係は9世紀になると急速に冷却化した。

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世界大百科事典(旧版)内の新羅使の言及

【遣新羅使】より

…600‐663年の間日本と親密な関係を続けた百済が唐・新羅によって滅ぼされ,いわゆる百済の役(白村江の戦)がおきて日本と新羅の外交は一時中断したが,668年(天智7)復交すると頻繁な使節の往来があった。この時期,30年間日本と唐の関係は空白状態にあったので,唐留学生・僧が新羅を経由したほか,新羅留学生・僧も少なくなく,律令制確立期の日本の政治・制度・文化に与えた遣新羅使と新羅使の影響は無視できない。(3)第3期(703‐882) 703年(大宝3)以後使節による比較的安定した交流が続いたが,720年代両国の関係に亀裂を生じた。…

※「新羅使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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