松田勘右衛門(読み)まつだかんえもん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松田勘右衛門」の意味・わかりやすい解説

松田勘右衛門
まつだかんえもん
(1698―1740)

江戸中期の義民。因幡(いなば)国八東(はっとう)郡東村(鳥取県八頭(やず)町)の農民で、1739年(元文4)に鳥取藩領の因幡・伯耆(ほうき)二国にまたがり約5万の農民が蜂起(ほうき)した大百姓一揆(いっき)(因伯(いんぱく)一揆)の首謀者として処刑された。一揆の2年前に藩へ意見書を提出しており、一揆発頭地も彼の出身の村に近かったので張本人とされたのである。大庄屋(おおじょうや)が代官にかわって年貢収納を請け負う「請免制」に反対したもので、『因伯民乱太平記』ほか多数の騒動記がある。

[横山十四男]

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朝日日本歴史人物事典 「松田勘右衛門」の解説

松田勘右衛門

没年:元文5.11.21(1741.1.8)
生年:生年不詳
江戸中期の鳥取藩領元文一揆の指導者。因幡国八東郡東村(鳥取県八東町)の農民。算数に熟達し,地方の事に詳しく,識見非凡といわれた。鳥取藩の苛政に対して救済策を上申したが容れられず,元文4(1739)年2月蜂起,これが藩内のほぼ全域に波及する大一揆となった。勘右衛門は一揆を指揮するに当たり,火の用心をし,盗みを禁止するなど整然とした行動を呼びかけた。一揆勢は鳥取城下へ押し寄せたが,武力鎮圧にあって四散し,かつ一部願い出をきくという藩の説諭もあって,終息した。勘右衛門は逮捕され,翌年梟首に処せられた。<参考文献>『鳥取藩史』1,『因伯民乱太平記』(『日本庶民生活史料集成』6巻)

(三宅紹宣)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松田勘右衛門」の解説

松田勘右衛門 まつだ-かんえもん

?-1741* 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。
因幡(いなば)(鳥取県)八東郡の農民。築堤営農の指導につくす。元文4年の一揆(郡代米村広当(ひろまさ)の交代や年貢軽減を要求)を指導し,因幡,伯耆(ほうき)両国鳥取藩領の農民5万人が蜂起。首謀者として弟武源治らとともに捕らえられ,5年11月21日処刑された。享年42歳とも。

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