稲村御所(読み)いなむらごしょ

百科事典マイペディア 「稲村御所」の意味・わかりやすい解説

稲村御所【いなむらごしょ】

室町期,鎌倉府が奥羽両国を統治するために置いた政治機関,およびその当主足利満貞をさす。1391年鎌倉府は両国併管を認可され,1399年鎌倉公方足利満兼が弟満貞を陸奥国岩瀬郡稲村(現福島県須賀川市)に派遣し,両国支配の拠点としたことに始まる。満兼は同時に弟満直(みつただ)も同国安積(あさか)郡篠川(ささがわ)(現福島県郡山市)に派遣,満直は篠川御所とよばれた。両御所の間に職務権限などの相違はみられず,相互に協力しながら施政範囲を奥羽全域に及ぼそうとしたが,影響力をもったのは南奥が中心で,仙道(せんどう)(現福島県中通り)地域のみであった。上杉禅秀の乱が起きると,稲村御所は鎌倉府方,篠川御所は幕府方に分裂,幕府の支援を得た篠川御所が優勢となる。1424年満貞は鎌倉に帰還し稲村御所は消滅,1439年永享の乱で鎌倉公方足利持氏とともに自害した。稲村御所の消滅後,篠川御所は鎌倉公方の地位を狙えるほどの勢いとなったが,1440年満直は下総結城合戦のさなか,結城方に攻められ自害した。
→関連項目篠川御所

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「稲村御所」の意味・わかりやすい解説

稲村御所 (いなむらごしょ)

室町時代奥州に置かれた政治機関およびその当主足利満貞を指す。1399年(応永6)足利満貞が陸奥国岩瀬郡稲村に下向し,ここを鎌倉府の奥羽支配の拠点としたことによる。同時に足利満直(みつただ)が同国安積郡篠川(ささがわ)に派遣されて篠川御所と呼ばれた。稲村御所と篠川御所との間には支配命令関係や職務権限の相違などはみられず,両御所ともに知行安堵,充行(あておこない),軍勢催促,軍忠感状などの文書を発給しており,相互に協力しながら奥羽支配を展開しようとしたとみられる。稲村御所等が影響力を持っていたのは南奥が中心であり,その権力基盤は仙道地域の国人一揆であった。1416年の上杉禅秀の乱以後,両御所は分裂し,稲村御所は持氏方に属し,幕府の支援を得た篠川御所と抗争するが,反持氏勢力を結集する篠川方に圧倒され,応永末ごろ鎌倉に帰府し,稲村御所は消滅した。満貞は永享の乱で持氏とともに鎌倉で自殺した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の稲村御所の言及

【陸奥国】より

…それは14世紀末にはみられるが,1404年(応永11)の福島県中通りの伊東一族を中心とした国人20名からなる仙道一揆(せんどういつき),10年の岩城,岩崎,楢葉,標葉(しめは),行方(なめかた)の海道5郡の国人10氏による五郡一揆などが代表的なものである。鎌倉公方足利満兼は1399年弟の満直(篠川御所(ささがわごしよ)),満貞(稲村御所)を陸奥に派遣するが,彼らはこうした国人一揆に支えられて,かろうじて南奥の一角に根拠をもつことができたにすぎない。鎌倉府滅亡の永享の乱(1438)にあたっては,稲村御所満貞は鎌倉に上って鎌倉公方足利持氏とともに自殺し,篠川御所満直は幕府と直結して,持氏にとってかわろうとする野心をみせるが,成功するはずもなく,1440年(永享12)の結城合戦の中で殺されてしまう。…

※「稲村御所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android