野口二郎(読み)ノグチジロウ

デジタル大辞泉 「野口二郎」の意味・読み・例文・類語

のぐち‐じろう〔‐ジラウ〕【野口二郎】

[1920~2007]プロ野球選手。愛知の生まれ。昭和14年(1939)東京セネタースに入団。1年目から33勝をあげ、4年目には40勝を記録。延長28回を一人で投げ抜くなど「鉄腕」の異名をとった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「野口二郎」の意味・わかりやすい解説

野口二郎
のぐちじろう
(1920―2007)

プロ野球選手(投手:右投右打)。1月6日、愛知県生まれ。中京商(現、中京大学附属中京高)時代は、快刀乱麻のピッチング甲子園観客をわかせた。1937年(昭和12)の夏に優勝、翌1938年春の選抜大会ではノーヒットノーランを含む4試合4完封の快投で優勝した。1939年に東京セネタースに入団、チームには兄の明(投手、のちに一塁手)も在籍していた。東京セネタースは、1940年に翼、1941年に大洋、1943年に西鉄と名称をかえたが(1943年までで球団消滅)、野口はこの球団で活躍した。まず1年目から33勝をあげると、翌1940年も33勝し、1941年には25勝をあげた。2年目と3年目はともに防御率0点台で、最優秀防御率のタイトルを手にした。1942年には40勝で最多勝利となり、奪三振王も獲得。この年の5月24日の名古屋金鯱(きんこ)戦では、相手先発の西沢道夫とともに延長28回をそれぞれ一人で投げ抜くという球史に残る熱投を繰り広げ、「鉄腕」とよばれるようになった。第二次世界大戦後は1946年に阪急ベアーズ(後の阪急ブレーブス、現オリックス・バファローズ)で復帰。プロ入り当初から投手だけでなく内野手外野手としても活躍していたが、とくに同年は2割9分8厘の打率を残し、当時の日本記録である31試合連続安打を記録した。1952年を最後引退。実働わずか12年間で5年連続を含む6回の20勝以上を記録、通算237勝は歴代11位タイ。

[出村義和 2016年9月16日]

 実働12年間の投手としての通算成績は、登板試合517、投球回3447と3分の1、237勝139敗、防御率1.96、奪三振1395、完投259、完封65。獲得したおもなタイトルは、最多勝利1回、最優秀防御率2回、最多奪三振1回。打者としての通算成績は、出場試合1098、安打830、打率2割4分8厘、本塁打9、打点368。1989年(平成1)に野球殿堂野球殿堂博物館)入り。

[編集部 2016年9月16日]

『野口二郎著『私の昭和激動の日々――思い出の勝負、監督、選手たち』(1990・ベースボール・マガジン社)』

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