アンダルス(その他表記)al-Andalus

改訂新版 世界大百科事典 「アンダルス」の意味・わかりやすい解説

アンダルス
al-Andalus

初めイスラム教徒(ムスリム)によるイベリア半島の呼称であったが,しだいに同半島における彼らの支配領域を指す用語となった。語源は〈バンダル人の国〉のラテン語名Vandaliciaにあり,そのアラビア語なまりがアンダルスである。アル・アンダルスとも呼ばれる。スペイン南部のアンダルシア地方はこの呼称に由来する。アンダルスの範囲は時代によって相違し,その最大は後ウマイヤ朝の宰相マンスールal-Manṣūr(?-1002)の時代で,スペイン・ポルトガルの北部を除く半島の大部分を含んだ。最小はグラナダ周辺を領域とするにとどまったナスル朝(1230-1492)の時代であった。

 8世紀初頭から15世紀末に至る約8世紀間,アンダルスには幾多のイスラム王朝が興亡し,この地の民族,社会,経済,文化に多大の影響を与えた。現代スペイン国家の形成に関するイスラムの役割いかんについては,古くからスペインの歴史家の間で論争がある。イスラムの役割を過小にみるサンチェス・アルボルノースClaudio Sánchez-Albornoz(1893- )のような学者もいるが,今日ではアメリコ・カストロAmérico Castro(1885-1972)が主張したように,イスラムの積極的貢献を認める見解が支配的である。アンダルスはシチリアとともに東西交流の主要な場であったことに変りはない。当地を経由して中世イスラムの,あるいは古代ギリシアのさまざまな文物,技術,学問,思想,芸術がピレネー山脈を越え,中世ヨーロッパ世界に影響を与えつづけた。また,イスラム世界においてもアンダルスは,一つの世界として政治・社会的統一体を保ち,かつ独自の文化を創造したことによって,イスラムの政治・文化に果たした役割も大きい。

アンダルスの歴史は5期に大別される。第1期は征服の開始(711)からウマイヤ朝の領州時代の終り(750)までである。ベルベル人の部将ターリク・ブン・ジヤードが711年に,次いでマグリブ総督ムーサー・ブン・ヌサイルMūsā b.Nuṣayr(640-716・717)が712年に,相次いでモロッコの海岸から上陸し征服を開始した。西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の北進は732年,南フランスのトゥール・ポアティエの戦の敗北で一時頓挫したが,その後も定期的遠征を繰り返し,ローヌ渓谷に進出したこともあった。第2期は後ウマイヤ朝時代(756-1031)である。この王朝の出現でアンダルスは政治的に東方から独立し,さらに同朝が国内体制を整え,産業を振興し,文化を奨励したので,アンダルスは最盛期を迎えた。

 第3期は後ウマイヤ朝という統一政権の崩壊後各地に出現した群小王朝(ムルーク・アッタワーイフMulūk al-Ṭawā'if)の時代(1031-91)で,北方キリスト教勢力の攻勢でイスラムの政治的衰勢が顕著になった。しかし,文化的にはむしろ前代を凌ぐ隆盛を誇った。第4期は,キリスト教勢力への対抗として北アフリカから相次いで入寇し権力を維持したベルベル人の王朝,ムラービト朝ムワッヒド朝の時代(1090-1223)である。ジハード(聖戦)を掲げた両王朝はアンダルスに宗教的排外主義にもとづく不寛容をもたらし,ムスリムとキリスト教徒の友好関係はくずれていった。また,十字軍運動に鼓舞されたレコンキスタ(国土回復戦争)軍は,しだいに南下の速度をはやめ,1212年,ラス・ナバス・デ・トロサLas Navas de Tolosaの戦でムワッヒド朝軍に大勝し,レコンキスタ運動の成就を不動のものにした。

 第5期は,グラナダに拠ったナスル朝の時代で,同王朝はキリスト教勢力に包囲されながら約2世紀半,半島におけるイスラムの牙城として存続したが,内紛や外圧に抗しきれず,1492年1月,アラゴン・カスティリャ連合軍のイサベル女王に降伏した。これによって政治権力としてのイスラムは半島から姿を消したが,その文化的経済的遺産は数世紀の間,半島に残った。

ムスリムの征服によって始まったアンダルスの社会は,政治権力者がアラブ・ベルベル人ムスリムであり,彼らによる原住民キリスト教徒・ユダヤ教徒の支配という構造をもっていた。しかしながら,ムスリムによる異教徒支配は,寛容度においてレコンキスタ以後のキリスト教徒によるムスリム・ユダヤ教徒の支配と対照的である。支配者集団としてのアラブは,征服者として入来したバラーディーユーンbalādīyūn,その後入来したシャーミーユーンshāmīyūnに分かれ,主として都市や肥沃な平野に居住した。一方ベルベル人は,征服に対する貢献度にもかかわらず従属的地位に甘んじ,主として山岳地帯に住んだ。後ウマイヤ朝期850年の〈コルドバの殉教事件〉(キリスト教徒聖職者がムハンマド侮辱のかどで死刑に処された事件)の例は存在するが,アラブ・ベルベル人による原住民支配は一般に寛容で,税を納入するかぎり彼らの宗教・思想・財産はジンミーとして保証されていた。やがて混血や政治的理由から改宗者がふえ,ムスリムの人口は増加した。それらをそれぞれ,ムワッラドゥーンmuwalladūn,ムサーリムmusālimという。後者は半島土着の人々で,アンダルスにおけるムスリムの大半は彼らであった。彼らは,前者とともにアンダルスのイスラムの主要な担い手であり,中には貴族となる者もいた。キリスト教徒としての信仰を保持しつつも,言語・文化・風俗の点でアラブ化した者をモサラベ(アラブ化した人々というアラビア語のスペイン語なまり)という。彼らは都市に住み,芸術家,建築家,文筆家,商人として活躍し,ムスリム社会と非ムスリム社会の交流・融合を促進させた一方で,通商活動に通じて北方のキリスト教諸国にイスラム文化を伝達した。ユダヤ教徒は西ゴート時代と異なって寛容に処遇されたので,北アフリカなどから当地に移住する者も多かった。彼らの中にはギリシア語,ラテン語,アラビア語などに精通する者が多く,後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世以降は,翻訳活動をはじめ多くの文化事業に従事した。また彼らは奴隷貿易や奢侈品の独占貿易に従事し,アンダルス経済の重要な担い手となっていた。奴隷はサカーリバsaqaliba(スラブslavからなまったもの)といわれ,おもにヨーロッパ諸国(フランス,ドイツ,ロシア)から戦争捕虜として,また商品としてもたらされ,宮廷における家事奴隷として,また諸君主の親衛隊として活動した。なおレコンキスタの過程でキリスト教の支配を受けたムスリムをムデーハル,1492年以後の半島におけるムスリムをモリスコという。前者はキリスト教社会に融合し,経済・文化の発展に貢献した。

アンダルス繁栄の基盤は,農業と工業生産とそれら生産物の輸出にあった。西ゴート朝期に衰退していた農工業は,アラブによって再興された。アラブは西アジア産の農産物を当地に持ち込むと同時に,すぐれた農業技術,とくに灌漑農法を駆使して,農地を拡大し,農産物を飛躍的に増大させた。穀物としては,小麦,大麦,米,トウモロコシなど,果物として,ブドウ,イチジク,リンゴ,メロン,ナシ,ザクロ,オレンジ,レモン,バナナなどが生産され,諸外国に輸出されていた。スペイン語で農産物を表す語の中に,アラビア語起源のものが多いが,それはアンダルスの農業の繁栄の証である。二,三の例をあげると,アラビア語の米al-ruzはarroz(英語ではrice),レモンlīmūnはlimón(英語ではlemon),砂糖al-sukkarはazúcar(英語ではsugar)などである。また林業も盛んで,それは山岳地帯に住んだベルベル人により開発され,アンダルスの緑地化が推進された。のち,レコンキスタ軍の南下により農地が荒廃し,現在アラブ農業の遺産はわずかにアンダルシア地方に残るのみである。ローマ時代の鉱工業もアラブによって再興された。鉄,銅,金,銀,鉛などが生産され,それらは武器,武具,装飾器具,家財道具となり諸外国に輸出された。その他,皮革製品,絹織物も特産品として輸出されたが,その通商で中心的役割を果たしたのがユダヤ教徒とモサラベであった。

イスラム世界の辺境として出発したアンダルスの文化は,はじめ東方イスラム世界の文化の模倣にすぎなかったが,しだいに独自のものとして展開し,中世ヨーロッパ,および北アフリカへと波及していった。政治権力者は,アラブとベルベル人であったが,人口の大半はユダヤ教徒を含む土着のスペイン人であり,彼らがムスリムとなり,あるいはモサラベとして当地の文化活動に参加すると,イスラム文化の土着化が進行し,内容豊かなアンダルス文化が形成された。彼らを文化活動に促した要因は,東方世界におけるペルシア人のように,イスラム社会へ融合したいという姿勢と,好学心,探究心であった。それを政治的に援護したのが,ハカム2世に代表される後ウマイヤ朝や群小王朝の諸君主の学問・文化の保護・奨励政策であった。

 アンダルスは詩の分野でムワッシャフmuwashshaḥ,ザジャルzajalと呼ばれる独自の詩の形式を生んだ。イブン・クズマーンIbn Quzmān(?-1160)は後者による詩を多くつくったが,それらは南フランスで活躍したトルバドゥール詩人へ多大の影響を与えたといわれる。また散文学における名作も多い。イブン・アブド・ラッビフの《類稀なる頸飾り》,神学者としても有名なイブン・ハズムによる恋愛論の白眉《鳩の頸飾り》,イブン・トゥファイルの哲学的小説《ヤクザーンの子ハイ》などがそれらである。文献学としてはカーリーal-Qālī(901-967)の《アマーリー》が著名である。歴史書としてはイブン・アルクーティーヤの《アンダルス征服史》,イブン・ハイヤーンIbn Ḥayyān(987・988-1076)の《アンダルス名士列伝》,イブン・アルハティーブの《グラナダ史》などが挙げられる。イブン・ハルドゥーンの《歴史序説》《イバルの書》は,アンダルスのみならず,イスラム世界の文化水準を示す好個の作品である。また地理学においても以下のような優れた著作が著された。バクリーの《諸国道里記》,旅行記の古典であるイブン・ジュバイルの《旅行記》,大旅行家イブン・バットゥータの旅行記などである。

 哲学・神学においても,幾多の大学者,作品を生んだ。プラトン哲学をもたらしたユダヤ教徒イブン・ガビロールは《生命の泉》を,イブン・バーッジャは《孤独者の療法》を著した。アンダルスの生んだ最大の哲学者でアリストテレスの注釈者イブン・ルシュド(アベロエス)は,哲学と宗教の調和を図ると同時に,哲学擁護の書として《矛盾の矛盾》を著した。彼の書はラテン語に翻訳され,トマス・アクイナスをはじめ中世ヨーロッパの哲学・思想に大きな影響を与えた。孤高の神秘思想家イブン・アルアラビーは《メッカ啓示》その他を著したが,その宇宙論的神智学は以後のムスリム思想界に決定的影響を及ぼした。科学の分野では,《天文学の書》のザルカーリーal-Zarqālī(?-1087)とビトルージー,《薬草論》のイブン・アルバイタールIbn al-Bayṭāl(?-1248),医学書《助言集》のザフラーウィー,同じく《詳解》のイブン・ズフルなどを輩出した。これらの著書もラテン語に翻訳され,近代ヨーロッパ科学の発生に貢献した。

 芸術の分野でもさまざまの様式が融合され数多くの作品を生みだした。すなわち,ローマ,ヘレニズム,西ゴート,ビザンティン,アラブ・ペルシアの諸様式が美術・建築・工芸に巧みに合一された。その代表的建築物としては,コルドバのメスキータ,後ウマイヤ朝時代の宮廷都市ザフラーal-Zahrā',セビリャのヒラルダの塔がある。また,ムデーハル文化を代表する建造物としてはセビリャのアルカサルalcázar(アラビア語ではal-qaṣr)がある。アラビア語書体の一つとしてのマグリビー体もアンダルス,北アフリカで用いられた独特の書体である。これらアンダルスの学問・芸術は,中世ヨーロッパに持続的に流入したが,この点で大きな役割を果たしたのがトレドを中心とする翻訳活動であった。この活動は賢王アルフォンソ10世のときに頂点に達し,膨大な量のアラビア語文献がヨーロッパ諸語に翻訳された。ダンテの《神曲》の内容・構成に決定的影響を与えたといわれるムハンマドの昇天(ミーラージュ)物語のひとつ《階梯の書》はこの地で翻訳されたものである。これら翻訳に従事したのはユダヤ教徒が主であったが,その他ヨーロッパから数多くの留学生が到来し,翻訳にたずさわった。その中でもM.スコット,チェスターのロバートRobert of Chester,クレモナのゲラルドが有名である。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アンダルス」の解説

アンダルス
al-Andalus

アラビア語でイベリア半島を示す地名。しばしば,イスラーム支配下のイベリア半島をさすものとして用いられる。711年にイスラーム勢力に征服されたのち,10世紀には後ウマイヤ朝のもとで首都コルドバの繁栄がみられた。しかし,11~13世紀にはイベリア半島北方のキリスト教徒によるレコンキスタによってスペイン南部に縮小し,北アフリカから進出したベルベル人系王朝との抗争が続き,1492年のグラナダ陥落でイスラーム政権は消滅した。アンダルスは,イスラーム政権のもとにありながら,ほぼ全時代を通じてイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒の三宗教の信徒が居住し,そこでは共存と衝突のさまざまな側面がみられた。また,イスラーム世界で発達した自然科学,哲学などを西ヨーロッパに伝える窓口の役割も果たした。

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世界大百科事典(旧版)内のアンダルスの言及

【アンダルシア】より

… 711年に始まるイスラム勢力の侵攻は,イベリア半島のイスラム化を促した。イスラム支配下の南スペインはアル・アンダルスal‐Andalusと呼ばれ,アンダルシアがその中心になる。10世紀バグダードから完全な独立を達成したアブド・アッラフマーン3世は,コルドバに遷都し,カリフ朝(後ウマイヤ朝)王国を築いた。…

【後ウマイヤ朝】より

…とくに,アラブの優れた灌漑技術による農地の拡大と農産物の量産が行われ,その集散地であるコルドバやセビリャは繁栄を極めた。幼少の君主ヒシャーム2世をめぐる宮廷内の権力闘争は,ワジール(宰相)でハージブであったマンスールal‐Manṣūr(?‐1002)の実権掌握で終わった。次いでマンスールは飽くなき対外戦争を行い,この結果同朝の領域は北アフリカの一部を含むにいたった。…

【ムガル細密画】より

…ペルシアの細密画を祖として,インドのムガル帝国の宮廷で行われた細密画。主題は世俗的かつ現実的であり,描法は写実的で,同時期のラージプート絵画と著しい対照をみせている。その最初期は,ペルシアのサファビー朝のタブリーズ派の画家が招かれ,多数の挿絵入り写本がもたらされて,もっぱらペルシア細密画の技法を消化吸収した時代である。第3代皇帝アクバル(在位1556‐1605)のときには,インド人の画家がしだいに指導的地位につき,インド的傾向が強まってムガル絵画独自の様式が明瞭になった。…

【コルドバ】より

… しかし,コルドバがその歴史の中で最も繁栄し,広く知られるようになるのはイスラム期に入ってからである。711年にイベリアに侵攻したイスラム教徒は,軍事征服が一段落すると,アル・アンダルスと命名したこの新しい領国の首都にコルドバを選んだ。そして756年にはダマスクスを追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世が亡命政権を立てたことから,西方イスラム世界の首都となった。…

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