カール大帝(読み)カールタイテイ(英語表記)Karl der Grosse

デジタル大辞泉 「カール大帝」の意味・読み・例文・類語

カール‐たいてい【カール大帝】

Karl der Große》⇒カール

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精選版 日本国語大辞典 「カール大帝」の意味・読み・例文・類語

カール‐たいてい【カール大帝】

  1. ( Karl der Grosse ) 「シャルルマーニュ」のドイツ名。

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改訂新版 世界大百科事典 「カール大帝」の意味・わかりやすい解説

カール[大帝]
Karl der Grosse
生没年:742-814

フランク王国の王(在位768-814),ランゴバルド王(774-781),西ローマ皇帝(800-814)。フランス語ではシャルルマーニュCharlemagne。カロリング朝ピピン3世の長男。父の死(768)とともに,弟カールマンKarlmann(751?-771)とともにフランク王位を継ぎ,弟の死とともに,唯一の王となる。彼の添名は,大きな体軀(身長約195cm)に由来し,小ぶとりで,風貌は丸く,無鬚であった。こうした外見や私生活その他はアインハルトの《カール大帝伝》に詳述されている。

 彼は現在のヨーロッパ共同体(EC)とほぼ等しい規模の西欧共同体を形成した。父ピピン3世の政策を受けて,彼はランゴバルド王に近づき,その娘と結婚し,同時に教皇庁に近づいたが,771年に義父のローマ攻撃を機に,妻と離婚し,ランゴバルド王国を下して併合した(774)。彼は教皇ハドリアヌス1世の求めに応じて,先王ピピンの寄進した領土を確認し,さらに拡大して教皇領を形成した。

 772年にフリースラント方面に進出したザクセン族に対して彼は,804年まで10回を超える遠征を繰り返し,彼の施策の酸鼻さは785年のザクセン地方に対する勅令に反映している。この遠征でフランク王国の支配と教会教区はエルベ川に及んだ。

 東方のバイエルンは,かつてローマ属州であり,その後同地の豪族家系出身の王に支配されていたが,カール大帝は,託身(コンメンダティオ)によってタッシロ3世を臣従させた後,その忠誠違反を問うて修道院に送り(788),同地方を併合して伯を配した。

 彼は778年にイベリア半島に侵攻したが,その帰途ロンスボーの峠で後衛がガスコーニュ人(バスク人)の攻撃を受け,この物語が後に《ローランの歌》に発展する。カタルニャへの侵入は785年に始まり,バルセロナを中心とするスペイン辺境領を形成して伯を配した。独立性の強いアクイタニアに対しては,たまたま同地で生まれた末子ルートウィヒ1世を,〈アクイタニア風に育て〉,アクイタニア人として同地方の王とした。

 一方,ローマ教皇との関係では,799年に教皇レオ3世は,ローマ街頭で襲撃を受け,投獄されて,破廉恥罪と瀆神(とくしん)罪とに問われた。カール大帝はこの件の裁判官として教皇を助け,教皇は800年の降誕祭に,彼に西ローマ皇帝の冠を与えた。以後彼はほとんどアーヘンにとどまり,あくまでフランクの習俗を核としながら,一種の神政政治を展開した。すなわち教会教区civitasを骨格とし,修道院を肉とし,ガリア典礼を改訂したローマ典礼を血液としたものである。この〈典礼改革〉とその普及が,宮廷学校以下諸学校でラテン語教育が励行された原動力であり,それは,修道院が今日のいわゆる小文字である〈カロリング小文字minuscules carolines〉を作り出した。また,彼の王直領地と修道院・教会領は,荘園の経営法の模範となった。地方行政官である伯(ラテン語でcomes,ドイツ語でグラーフGraf)は司教管区へ配属され,彼ら相互間の連絡や命令の伝達は,聖俗二人組の巡察使が行った。こうした国家体制の基礎となる経済流通を助けるために,彼は大修道院に市を開かせ,銀貨の品位を向上させた。

 806年に彼は〈分国令Divisio Regnorum〉を発して,フランク族の伝統に従って息子3人に対する彼の死後の承継を指定したが,彼の死の直前に生き残ったのは末子ルートウィヒ1世ただひとりであり,彼は813年にこの末子を皇帝に任じ,814年,アーヘンで死去した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カール大帝」の解説

カール大帝(1世)(カールたいてい(いっせい))
Karl der Große[ドイツ],Carolus Magnus[ラテン],Charles the Great[英],Charlemagne[フランス]

742~814(在位768~814)

フランク王国カロリング朝第2代の王。768年父ピピン短躯王(小ピピン)を,弟カルロマンとともに継ぎ,771年単独の王となった。アクイタニア鎮定から外征を始め,教皇ハドリアヌスの要請で北イタリアへ遠征し,ランゴバルド王国を滅ぼす一方(774年),一貫して東方経略に努力した。特にサクソン人に対しては前後5回以上,30年にわたる戦いののち,これを征服した。787年バイエルンを征服,さらに799~804年にはアヴァル人を破り,ドナウ川中流域まで支配をのばした。他方イベリア半島のイスラーム教徒に対しても兵を進めたが(778年),その帰途のロンスヴォーにおける殿(しんがり)軍の敗北『ローランの歌』の素材となった。こうして北海から地中海エルベ川よりピレネー山脈に及ぶフランク帝国の版図が築かれた。800年クリスマスに教皇レオ3世はローマで,彼に西ローマ帝国の帝冠を与えた。これは中絶していた西ローマ帝国の復興を意味していた。彼は国家の地方行政を,各地に配置した伯(コメス)に主として担当させ,さらに巡察使を派遣してこれを査察させた。また多数の勅命を発布したが,それらはカピトゥラリアの名で呼ばれる。彼はまた,学問,文芸の復興にも意を注ぎ,いわゆる「カロリング・ルネサンス」が現出した。皇帝がアーヘンで没した直後から,伝記作者は彼を大帝と呼び,11世紀以降の武勲詩は彼をもって中世君主の理想像とするに至った。

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デジタル大辞泉プラス 「カール大帝」の解説

カール大帝

ドイツの筆記具ブランド、モンブランの万年筆の商品名。「パトロンシリーズ」。8世紀後半のフランク王国の国王、カール大帝をイメージ。

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世界大百科事典(旧版)内のカール大帝の言及

【カロリング朝】より

フランク王国の後期王朝(752‐987)。カール大帝の名をとってカロリング朝とよばれる。アウストラシア宮宰ピピン1世とメッツ司教アルヌルフとの家系から生じ,しだいに全宮宰職を獲得した。…

【カロリング朝美術】より

…カロリング朝が支配したフランク王国で,8世紀後半から9世紀末にかけて栄えた美術。カロリング・ルネサンスとよばれる古代文化復興運動は特に,カール大帝が戴冠した800年ころより急激に美術の分野にも及んだ。伝統的にゲルマン人は抽象的な芸術感覚をもち,装飾にはおもに幾何学文を用いていた。…

【カロリング・ルネサンス】より

…8世紀末から9世紀初めにかけての,カロリング朝フランク王国のカール大帝時代にみられた文化興隆の動きをいう。カール大帝は,彼がよみがえらせた西欧の帝国のキリスト教化と文化の復興に,強い使命感をもっていた。…

【キリスト教】より

…なお,近・現代の東方正教会の動向については後述の部分を参照されたい。【森安 達也】
【中世カトリック教会】
 800年のクリスマスにフランク王カール大帝がローマ教皇レオ3世の手から冠をうけてローマ人の皇帝とされたことは,西ヨーロッパにおける中世キリスト教の成立を象徴するできごとであったといえる。これは,カールに西ローマ帝国再興の権をゆだねることで,ローマ的伝統を保ちつつ,政治的安定の下に教権の進展をはかろうとするものであった。…

【皇帝】より

…imperatorは中世では,ビザンティン帝国で皇帝を指すbasileus(後述)と等置された。カール大帝が800年のクリスマスにローマで帯びたimperator称号については,今日なお歴史家のあいだで解釈が定まらないものの,その結果,imperatorカール大帝と,basileus称号を帯びるビザンティン皇帝との間には,皇帝称号をめぐって,いわゆる中世における二皇帝問題が発生した(後述)。(2)caesarは本来ラテン語の家名でありながら,アウグストゥス以来皇帝を意味する称号となった。…

【ザクセン】より

…そして,部族全体にかかわる大事が発生した場合には,ウェーザー川中流に沿ったマルクローMarkloで集会が開かれ,全体の意思形成がはかられた。 カロリング朝フランク王のカール大帝の時代に,ザクセン族の歴史は大きな転機をむかえる。カール大帝は長期にわたる一連の戦争(772‐804)によってザクセン族を征服し,執拗に伝統的祭祀を守ろうとする彼らの抵抗を押しつぶしてキリスト教を受容させ,この強大な部族をフランク王国の中にくみいれた。…

【神聖ローマ帝国】より

…したがって,〈神聖ローマ帝国〉の理念に対応する現実を歴史に求めるとすれば,まだその名称の存在しない時代にそれを探らなければならず,また逆に,中世後期以降の神聖ローマ帝国なるものには,はじめからその名とは無縁な現実を予想しなければならない。 中世の諸皇帝がいずれもカロリング朝カール大帝を範と仰ぎ,みずからを彼の事業の復興者ないし継承者として位置づけたことはよく知られている。800年にローマで戴冠したカール大帝は,その公文書のなかで〈フランク人とランゴバルド人の王〉という伝統的王称号を維持すると同時に,〈ローマ帝国を統(す)べる皇帝imperator Romanum gubernans imperium〉の皇帝称号をつけ加えた。…

【中世音楽】より

…ローマに教皇庁ができてからも,グレゴリウス1世らの尽力を契機として,典礼聖歌の体系がつくり上げられていった。ローマ式典礼聖歌が確立したあとは,フランク王ピピン3世やカール大帝の政策などにもよって,フランスのガリア聖歌,スペインのモサラベ聖歌などの地方的な諸体系は消滅したが,ミラノ式典礼聖歌だけは,アンブロシウス聖歌の名で今日まで伝えられてきた。今日グレゴリオ聖歌の名で知られているローマ・カトリック教会の単旋律の典礼聖歌は,ルネサンス時代の反宗教改革の波の中で整理されたもので,中世の何世紀ものあいだに創作され改変された歌の集大成であり,地中海沿岸起源の歌よりも,フランク・ゲルマン起源の歌が多いのではないかと考えられている。…

【ドイツ語】より


[古高ドイツ語]
 古高ドイツ語の時代はドイツ語による文献の出現とともに始まるが,厳密に言えば,当時は〈ドイツ語〉という統一概念はドイツのごく限られた一部の地域にしか広まっておらず,ドイツの地には西ゲルマン語に属する諸部族の言葉が個々に存在しているにすぎなかった。ドイツでは6世紀ころより,フランク族による諸部族の征服と統合が行われるが,8世紀中ごろ帝位についたカロリング朝のカール大帝は,最終的に征服し終えた諸部族をキリスト教の理念によって統一することを目ざした。そのために,彼は教会制度など種々の制度改革を行ったが,その一環として,聖職者がラテン語ではなく民衆の言葉で説教し教義を教えることを命じた。…

【ドイツ美術】より

…その点で,個人的,神秘的心情から生まれた中世の〈アンダハツビルトAndachtsbild〉(祈禱像)も,はなはだドイツ的な創造物であったといわなければならない。
【中世】

[カロリング朝――カール大帝と古代文化復興]
 今日のドイツの起源は8世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)の時期にまでさかのぼる。しかし彼の時代にはまだ本来のドイツという国は存在せず,ドイツ固有の文化や美術について論ずることができるのは,10世紀のオットー朝(ザクセン朝)に始まるロマネスク時代になってからである。…

【ナバラ】より

… 歴史的には,ナバラの中心であるパンプロナはローマ支配時代から注目され,次いで西ゴート族,イスラム教徒に占領された。777年,フランクのカール大帝の侵入後,その辺境領となったが,9世紀末ごろから独立し,ピレネー山脈の南北にまたがる王国を形成した。西ヨーロッパ・キリスト教世界とイベリア半島を結ぶ商業・巡礼路が同国を通っていたため,11世紀のナバラはヨーロッパの新しい息吹きを受け入れ,イベリア半島の国々へ伝えた。…

【ひげ(髭∥鬚∥髯)】より

… ひげと神権または王権との結合はあまねく見られ,アッカド王国の創始者サルゴンはほおから下を豊かな編みひげで覆い,ペルシアの王や貴族は金粉や金糸を添えたひげを誇り,女王も付けひげを黄金の鎖でとめていた。さらに時代を下ればアーサー王のひげがあり,《ローランの歌》はカール大帝(シャルルマーニュ)の白ひげを繰り返し歌っている。東ローマ皇帝コンスタンティヌス4世はPogonatus(鬚皇帝)とあだ名され,キューバ革命を成し遂げたF.カストロはEl Barbudo(髭男)と呼ばれている。…

【フランク王国】より

…486‐987年。5世紀末に,クロービスがフランクFrankの全部族を統合し,北ガリアに部族王国を建てたのに始まり,他のゲルマン系諸部族・諸国家を次々と征服して,西ヨーロッパの大部分の政治的統一を達成し,カール大帝は800年,ついに皇帝の称号を帯びるにいたるが,ベルダン条約(843)で帝国は三つに分割され,さらにメルセン条約(870)により東フランク王国と西フランク王国が並立する。フランク王国の政治史的発展については〈メロビング朝〉〈カロリング朝〉の項に譲り,ここではフランク王国の政治構造,社会構成,経済状態,文化的貢献,さらにフランク王国をめぐる国際関係などを取り扱う。…

【フランクフルト・アム・マイン】より

…〈フランク族の(マイン川)渡河点〉を意味する地名Franconofurdは,この時期につけられたといわれ,これが現在のフランクフルトの呼称のもととなった。文書史料にこの名が最初に登場するのは794年のことで,この年カール大帝は,ヨーロッパ全土から聖俗高位者をこの地に呼び集め,その王宮広間で,バイエルン大公タッシロ3世の廃位,キリスト猶子説と聖画崇拝の禁止など重要問題を討議した。ルートウィヒ1世(在位814‐840)は,王宮を改築し,以後東フランク諸王の主要な宮廷所在地となった。…

【フランクフルト会議】より

…カロリング朝時代にフランクフルト・アム・マインではたびたび教会会議が開かれたが,特に著名なのは794年カール大帝によって召集されたもの。スペインのトレド大司教エリパンドゥスElipandusの唱えた〈キリスト養子説〉に対する態度を決定するために開かれ,アルクインらがこれに反論した。…

【ローマ[市]】より

…ローマの覇権を握った貴族あるいは豪族は,フランクやランゴバルドなどの外部勢力の支持を得ていたので,教皇の政治的な影響力はかなり限定されたものであった。ローマがランゴバルドの侵入を完全に退けたのは,カール大帝の支持を受けた教皇ハドリアヌス1世の時代のことである。しかしその後も,教皇はローマ貴族の反乱に悩まされ,教皇レオ3世が,800年にカール大帝がローマに戴冠式に来たおりに,今も残るノメンタナ橋まで出迎えたのは,フランク王の力を借りて自らの政治的権力を確立しようとしたからにほかならなかった。…

【ローマ理念】より

…第四のローマはありえない〉とされた(第三ローマ論)。 一方,中世ラテン世界においては,普遍的秩序の象徴としてのローマ理念を担ったのはむしろローマ教皇であったが,フランクへのローマ帝国の委譲とみなされたカール大帝(シャルルマーニュ)の帝国や神聖ローマ帝国の建国もまた,実態はともあれ普遍的支配への主張であった。近代においてはローマ教皇から帝冠を受け,ルイ16世ではなくカール大帝の後継者を自認したナポレオン1世に,普遍的ローマ理念の影響が認められよう。…

【ロンセスバリェス】より

…フランス語ではロンスボー。778年フランク王カール大帝のイスラム教徒に対する遠征軍が帰途に当地のバスク人に敗北した戦いは,中世の叙事詩《ローランの歌》に伝承された。サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路のスペイン側の起点で,12世紀に建てられた修道院は宿泊所および病院にあてられた。…

※「カール大帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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