アブド・アッラフマーン3世(英語表記)`Abd al-Raḥmān Ⅲ

山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

アブド・アッラフマーン3世(アブド・アッラフマーンさんせい)
‘Abd al-Raḥmān Ⅲ

889/891~961(在位912~961)

後ウマイヤ朝最盛期カリフ。イブン・ハフスーンの反乱(881~915)に代表される諸反乱を鎮圧して国内を統一北方レオン王国ナバラ王国カスティリャ王国などのキリスト教諸王国には貢納を課し,929年にはファーティマ朝に対抗してカリフの称号を名乗った。バグダードとは活発な文化交流が行われ,商工業も発達,首都コルドバ人口は50万人を数えた。また首都郊外に荘厳なザフラー宮殿を建設した。

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

アブド・アッラフマーン[3世]
`Abd al-Raḥmān Ⅲ
生没年:889-961

後ウマイヤ朝第8代アミール。在位912-961年。即位後しばらくの間,国内諸勢力の統合に努め,その後は北方のレオン国王などキリスト教徒諸侯の南進を阻止し,929年にはカリフと称してファーティマ朝に対抗し,マグリブ西部の大半を後ウマイヤ朝支配下に置いた。国内産業の振興に努める一方,ベルベル人やスラブ系の軍人奴隷サカーリバを軍隊主力とし,王朝の最盛期を現出した。
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世界大百科事典(旧版)内のアブド・アッラフマーン3世の言及

【後ウマイヤ朝】より

…756‐1031年。ウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が,アッバース朝の追手を逃れて,756年総督ユースフを破り,コルドバでアミールを宣して以来,1031年の滅亡まで,24代(19人)の君主のうち16人までがウマイヤ家出身者であったので,日本では後ウマイヤ朝と通称される。アブド・アッラフマーン1世は,カリフではなくてアミールと自称したが,それは彼の王朝がまだアッバース朝と比肩できず,またイスラム国家は一つで,しかも1人のカリフによって治められなければならないという伝統を重んじたからである。…

【コルドバ】より

…711年にイベリアに侵攻したイスラム教徒は,軍事征服が一段落すると,アル・アンダルスと命名したこの新しい領国の首都にコルドバを選んだ。そして756年にはダマスクスを追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世が亡命政権を立てたことから,西方イスラム世界の首都となった。 後ウマイヤ朝期(756‐1031)はアル・アンダルスの最盛期であり,コルドバは西ヨーロッパ随一の規模に発展した。…

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