アルタンハーン(英語表記)Altan Khan

改訂新版 世界大百科事典 「アルタンハーン」の意味・わかりやすい解説

アルタン・ハーン
Altan Khan
生没年:1507-82

内モンゴル,トゥメト部長。中国資料では阿勒坦汗,俺答汗と表記される。バルス・ボラトの次子として生まれ,その死後,トゥメト部を継承した。16世紀半ばより,しばしば明の北辺に侵入し,明人から恐れられた。また同族のチャハル部を圧迫して,これを遼東辺外に追った。のちにこれと和解し,ダライスン・ゴデン・ハンからシト・ハンの称号を得て,内モンゴル最大の実力者となった。1550年(嘉靖29)8月にアルタンは,明との正式な交易を求めて,北京を3日間包囲した。これを庚戌(こうじゆつ)の変という。その後約20年間にわたって明へ侵入し,大きな被害を与えたが,70年(隆慶4),その孫の把漢那吉が明に下ると,明と和約を結び,順義王の称号を得た。78年(万暦6),アルタンは青海地方で,チベット黄帽派(ゲルー派)ラマ教の管主ソーナム・ギャツォ(1543-88)と会見し,これにダライ・ラマの称号を贈るとともに,黄帽派の保護を約束した。晩年はラマ教に深く帰依し,その根拠地フフホト(現在,内モンゴル自治区の省都)をはじめ,多くのラマ教寺院を建てた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「アルタンハーン」の意味・わかりやすい解説

アルタン・ハーン

明代モンゴルの君長。中国では阿勒坦汗,俺答汗と書く。しばしば明の北境に侵入,1550年には北京を囲む。1570年明朝と和し,順義王の号を受ける。北西モンゴリアをも経略,青海を征服,チベットに出兵。1578年チベットからダライ・ラマを迎え,ラマ教チベット仏教)のモンゴリア移入に努めた。
→関連項目張居正

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルタンハーン」の解説

アルタン・ハーン
Altan Khaan 俺荅汗

1508~82

モンゴルのトゥメト部の首長ダヤン・ハーンの第3子バルスボロトの第2子。明,オイラトを討って勢力を伸ばした。1570年,明と和して順義王の号を受け,78年,ダライラマ3世と会見してチベット仏教黄帽派(こうぼうは)(ゲルク派)に改宗した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアルタンハーンの言及

【帰化城】より

…中国,内モンゴル自治区の区都フフホト(呼和浩特)の旧名。この地は遼・金・元代(10~14世紀)に豊州と呼ばれ,明末の16世紀20年代から内モンゴル族のトウメット(土黙特)部長アルタン・ハーンが駐牧してからモンゴル名のフフホト(青い城の意)で知られるようになった。1570年(隆慶4)明朝との和議が成り,アルタン・ハーンが明朝から順義王に封ぜられた際,その居城に対して帰化城の名を贈られた。…

【ラマ教】より

…【山口 瑞鳳】
【モンゴリア等におけるラマ教】
 黄帽派(ゲルー派)ラマ教がチベットの外へ最初に広まった地方はモンゴリアである。16世紀中ごろから黄帽派信仰が内モンゴリア西部のモンゴル貴族の間に流行しはじめ,ついに1578年大アルタン・ハーンは青海湖畔でダライ・ラマ3世に謁してその施主となるにいたった。ハーンの黄帽派への帰依はモンゴリアへのラマ教弘通の重大な機縁となった。…

※「アルタンハーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android