張居正(読み)ちょうきょせい(その他表記)Zhāng Jū zhèng

精選版 日本国語大辞典 「張居正」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐きょせいチャウ‥【張居正】

  1. 中国、明の政治家。字は叔大。神宗の時宰相となり、蒙古との和平に成功。また、全国的な戸口調査および検地を行ない、農民の負担の均衡をはかった。著に「書経直解」「帝鑑図説」など。(一五二五‐八二

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改訂新版 世界大百科事典 「張居正」の意味・わかりやすい解説

張居正 (ちょうきょせい)
Zhāng Jū zhèng
生没年:1525-82

中国,明代の政治家。字は叔大。太岳と号し,文忠と諡(おくりな)される。湖北省江陵県の人。ために張江陵とも称せられる。嘉靖26年(1547)の進士。家は湖広の軍籍に属し,祖父は王府の護衛という寒門の出身であるが,早くから実務的政治家としての能力を示していた。大土地所有の進行,土地の隠蔽田賦の不公平,北辺軍事費膨張による財政困難等の諸現実に国家の危機をみた彼は,政争を巧みにのりきり,1567年(隆慶1)には東閣大学士として入閣国政に直接参与することとなった。当時,最大の懸案であった北辺防備に関して,彼は和平策を貫き,アルタン・ハーンを順義王に封ずることにより,北辺に一応の平静をもたらした。72年,10歳の神宗(万暦帝)が即位すると,彼は首輔として大権を握り,幼帝を教育しつつ10年間,独裁的に国政を処理した。李成梁を登用し,遼東方面に勝利を収める一方,各種の行政整理を断行したが,何よりも意を注いだのは,財政問題の解決に向けての丈量(検地)であった。地主階級の利害に大きくかかわるこの丈量の実行は困難も多く,それなりの成果をあげつつも,ついに完成をみることなく彼は没した。一連の改革を通じ,国庫は回復に向かい,その富国強兵策には見るべきものがあったが,秦の始皇帝法治主義を理想とし,因襲にとらわれぬ彼の強力な政治は,儒教的粉飾を脱せぬ伝統的政治観と相容れず,その厳酷さを非難する声は生前からあった。死後の反動も大きく,家は籍没され,長子は自殺するという悲惨な結末に見舞われる。明末の異端思想家李贄(りし)や,〈中国のルソー〉黄宗羲の彼に対する評価は高い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「張居正」の意味・わかりやすい解説

張居正
ちょうきょせい
(1525―1582)

中国、明(みん)の官僚。湖北省江陵(こうりょう)の人。字(あざな)は叔大(しゅくだい)。号は太岳。諡(おくりな)は文忠。1547年に進士となり、庶吉士(しょきつし)を振り出しに嘉靖(かせい)(1522~66)末~隆慶(りゅうけい)(1567~72)初の首輔(しゅほ)であった徐階の知遇を得て累進し、67年東閣大学士となって入閣した。万暦(ばんれき)帝(在位1572~1620)が即位すると、皇太后や宦官馮保(かんがんふうほ)と結んで高拱(こうきょう)を退けて首輔となり、以後死亡時まで、帝の師として最高権力を掌握した。内政では官僚の綱紀粛正、冗官の整理、黄河下流の治水工事や全国的な土地丈量による隠田摘発などに敏腕を振るった。外には名将の戚継光(せきけいこう)、李成梁(りせいりょう)を満州からモンゴリア方面に派遣して辺防を強化した。モンゴルのアルタン・ハンとの戦争状態も平和的に改善し、互市を再開するなど、卓越した政治力を示した。しかし、性格が剛直で、皇帝に対しても他の官僚に対しても厳格にすぎたところがあって人の恨みを買い、父の死に服喪しなかったことを攻撃された。死後、一家は籍没(財産の没収)された。

[川勝 守]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張居正」の意味・わかりやすい解説

張居正
ちょうきょせい
Zhang Ju-zheng; Chang Chü-chêng

[生]嘉靖4(1525).5.3.
[没]万暦10(1582).6.20. 北京
中国,の政治家。湖北省江陵県の人。字は叔大。号は太岳,江陵。諡は文忠。父は文明,母は趙氏。嘉靖 26 (1547) 年進士となり,庶吉士を振出しに累進して翰林院侍読学士,隆慶1 (67) 年には吏部左侍郎兼東閣大学士として入閣し,同年4月には礼部尚書兼武英殿大学士となった。万暦1 (73) 年には内閣の首輔としてその後 10年間にわたり幼帝を助け,内外の政治を独裁的に処理した。対外的にはモンゴルとの和議成立後チャハル部のトゥメン・ハン,建州右衛を討って北辺の防衛線を安定させたほか,内政面では大規模な行政整理,冗費の節減を行い,黄河の治水工事,検地の全国的実施など民政の安定と国庫の充実をはかり,改革するところが多かった。しかしその政治はきびしすぎたので,内外に多くの敵をつくり,死後たちまち弾劾されて一切の官爵を剥奪された。主著『書経直解』『帝鑑図説』。

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百科事典マイペディア 「張居正」の意味・わかりやすい解説

張居正【ちょうきょせい】

中国,明代の政治家。湖北省の人。1547年の進士。万暦帝時代の首輔。アルタン・ハーンとの戦争状態を停止させ,王杲(おうこう)の侵入を防いだ。京師・各省の行政を整理し,冗費の節減,黄河下流の治水工事に成功したが,その政治はきわめて厳酷であった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「張居正」の解説

張居正(ちょうきょせい)
Zhang Juzheng

1525~82

明代の政治家。湖北省江陵県の人。1547年の進士万暦(ばんれき)帝時代の首輔。外は北虜(ほくりょ)を退け,内は行政整理,治水,財政再建などに尽くし,明中興の実をあげた名臣として知られる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「張居正」の解説

張 居正
ちょうきょせい

1525〜82
明の政治家
隆慶 (りゆうけい) 帝から万暦 (ばんれき) 帝の初期にかけて首席内閣大学士として独裁的手腕をふるい,モンゴルのアルタン=ハンと和議を結んで軍事費を節約し,地主階級を押さえて農民の負担を平均化した。死後,彼の専横が非難され,罪を受けた。

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367日誕生日大事典 「張居正」の解説

張 居正 (ちょう きょせい)

生年月日:1525年5月3日
中国,明の政治家
1582年没

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世界大百科事典(旧版)内の張居正の言及

【大明会典】より

…もう一つは《万暦会典》(228巻)と称する。これより前,嘉靖年間(1522‐66)に《続修大明会典》(53巻)が編纂されたが頒行されず,1576年(万暦4)にいたって張居正らが勅を奉じて続修に着手し,申時行らによって完成,頒布された。これは正徳から万暦までの事例を追加したもので,形式は《正徳会典》を踏襲しているが,引用書名を挙げないなど若干の相違もある。…

【帝鑑図】より

…中国,明代の政治家張居正の著書《帝鑑図説》12巻(1572∥隆慶6)にもとづいた人物画の画題。尭・舜以来の君王の治政の善の法とすべきもの81事,悪の戒めとすべき36事を選び,《蒙求(もうぎゆう)》の体に倣い,故事を四字句にまとめ,内容を述べ,1図を加えている。…

【万暦帝】より

…姓名は朱翊鈞(しゆよくきん),諡(おくりな)は顕皇帝,廟号は神宗,年号は万暦。10歳で即位したため,政務はもっぱら内閣の首席大学士であり,帝の学問上の師でもあった張居正に委ねられた。張居正は内政において,綱紀の粛正,冗官の整理につとめたほか,国家の財政収入を確保するため,1580年(万暦8)以来,全国的な土地の再測量と登録更新,すなわちいわゆる丈量(じようりよう)を行った。…

【明】より

…財政については,国初以来の古い原則と現実との間の矛盾が大きいうえ,官僚機構の腐敗と有力者の不当行為が結びついて,徴税の不当不正と非能率は目に余り,すでに正徳年間(1506‐21)から地方的に改革が試みられていた。徴税の基礎となる丈量(土地測量)を全国的に実施し,一時的にもせよ財政を再建したのが,万暦(1573‐1619)初期の張居正である。彼は幼い万暦帝の師傅(しふ)として母后の信頼を背景に,官僚の綱紀粛正に努力し,土地の丈量・再登記によって,嘉靖以来徐々に実施されていた税制改革を,いっそう効果あらしめたと考えられる。…

※「張居正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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