イギリス公使館焼打事件(読み)イギリスこうしかんやきうちじけん

百科事典マイペディア 「イギリス公使館焼打事件」の意味・わかりやすい解説

イギリス公使館焼打事件【イギリスこうしかんやきうちじけん】

幕末の対英攘夷事件。1862年(文久2年)幕府は攘夷を促す勅諚(ちょくじょう)受け入れを江戸下向中の勅使三条実美らに伝えた。一方で東禅寺事件(第1次)後の諸外国の要求を容れ,各国公使館を品川御殿山(ごてんやま)(現東京都品川区)に移す工事を進めていた。横浜外人居留地襲撃を止められて江戸桜田藩邸に謹慎中だった萩藩高杉晋作久坂玄瑞伊藤俊輔伊藤博文)・志道聞多(井上馨)ら尊王攘夷派は,勅使が江戸を離れた直後の文久2年12月12日(1863年1月31日)最も工事の進んでいたイギリス公使館を襲い焼打ち,攘夷の気勢をあげた。生麦事件・東禅寺事件(第2次)に続いたこの事件にイギリスは態度を硬化
→関連項目尊王攘夷運動

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改訂新版 世界大百科事典 「イギリス公使館焼打事件」の意味・わかりやすい解説

イギリス公使館焼打事件 (イギリスこうしかんやきうちじけん)

1863年1月31日(文久2年12月12日)深夜,長州藩の高杉晋作,久坂玄瑞,志道聞多(井上馨),伊藤俊輔(博文)らが,江戸品川の御殿山に建築中のイギリス公使館に侵入し,火薬を仕掛けて全焼させた事件。江戸滞在中の彼ら長州藩尊王攘夷派の志士たちは,幕府に攘夷を督促する勅使三条実美,姉小路公知を迎えてますます意気があがり,御楯組を結成して攘夷決行の機をうかがっていた。そして,当初予定していた横浜外人居留地の襲撃については,周囲から説得されて思いとどまったものの,勅使が離府した直後に素志を実行し,この挙に及んだものである。イギリス側は4ヵ月前の生麦事件に次ぐこの事件でますます強硬になり,一方で開国通商を対外的に約し,他方で朝廷から攘夷断行をせまられている幕府は,このためいっそう窮地に陥った。
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旺文社日本史事典 三訂版 「イギリス公使館焼打事件」の解説

イギリス公使館焼打ち事件
イギリスこうしかんやきうちじけん

幕末の攘夷運動の一つ
1862年,長州藩士高杉晋作・久坂玄瑞・品川弥二郎ら約10名が,江戸品川御殿山に建築中のイギリス公使館を襲撃し焼き払った事件。

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