井上馨(読み)イノウエカオル

デジタル大辞泉 「井上馨」の意味・読み・例文・類語

いのうえ‐かおる〔ゐのうへかをる〕【井上馨】

[1836~1915]政治家。山口の生まれ。通称、聞多もんた。幕末の尊王攘夷運動に参加。第一次伊藤内閣の外務大臣として欧化政策をとったが、世論の反対にあい、条約改正交渉に失敗。農商務相・内務相・蔵相を歴任。のち元老として国政に関与。

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精選版 日本国語大辞典 「井上馨」の意味・読み・例文・類語

いのうえ‐かおる【井上馨】

  1. 政治家。長州藩出身。幼名勇吉。通称聞多。号世外。第一次伊藤内閣の外相となり、条約改正交渉のため欧化政策をすすめる。のち、農商務相、内相、蔵相などを歴任。天保六~大正四年(一八三五‐一九一五

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百科事典マイペディア 「井上馨」の意味・わかりやすい解説

井上馨【いのうえかおる】

明治の政治家。長州萩藩士の家に生まれ,養子となって志道(しじ)聞多と称したが,のち井上家に復帰。青年時代尊攘(そんじょう)倒幕運動に献身。維新後1871年大蔵大輔として地租改正秩禄処分を推進したが,政府財政を批判し辞職。大阪会議を機に政府に復帰,1875年には特命副全権弁理大使として日朝修好条規を結び,同年渡欧,1878年帰国。1885年第1次伊藤内閣の外相となり,条約改正のために,いわゆる鹿鳴館時代を現出させた極端な欧化政策を採り世の非難を買った。以後農商務相,内相,蔵相等歴任し,晩年は元老の一人として政界に臨んだ。井上は財界,特に三井との関係が深く,その最高顧問となり〈三井の番頭〉ともいわれた。
→関連項目青木周蔵イギリス公使館焼打事件伊藤博文内閣欧化主義小室信介三大事件建白運動帝国ホテル原敬藤田組贋札事件藤田伝三郎馬越恭平益田孝三野村利左衛門明治14年の政変

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「井上馨」の意味・わかりやすい解説

井上馨
いのうえかおる
(1835―1915)

幕末の志士、明治時代の政治家。号は世外。天保(てんぽう)6年11月28日長州藩士の子として生まれる。幼名を勇吉と称し、のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)となり名も聞多(もんた)と改名、その後ふたたび生家に戻った。幕末期には木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに長州藩倒幕派の中心人物として活躍、維新政権成立後には財政・外交面を中心に政府の主要官職を歴任し、大正4年9月1日80歳で没するまで、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)とともに明治の三元老の一人として政界に君臨した。

 1862年(文久2)高杉らと品川のイギリス公使館を襲撃したが、翌年イギリスへ洋行し、これを契機に尊王攘夷(そんのうじょうい)から尊王倒幕へと思想を転回させた。1864年8月、四か国連合艦隊の下関砲撃を知って急遽(きゅうきょ)帰国し、開国の必要を説くとともに、薩長(さっちょう)連合に尽力し倒幕運動を推進した。維新後、参与(さんよ)兼外国事務掛として政府入りし、1869年(明治2)通商司知事、1871年には大蔵大輔(おおくらたいふ)に就任したが、岩倉使節団の渡欧中に財政問題から辞職し、貿易会社先収(せんしゅう)会社(三井物産会社の前身の一つ)をおこした。1875年大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰。同年江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣、1878年参議兼工部卿(こうぶきょう)、翌年外務卿、1884年の甲申(こうしん)政変後の特派全権大使などを歴任しながら、日本鉄道、日本郵船の設立や大農経営論を展開するなど殖産興業に尽力した。1885年内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣、黒田清隆(くろだきよたか)内閣の農商務大臣、第二次伊藤内閣の内務大臣、総理臨時代理、第三次伊藤内閣の大蔵大臣などに就任した。外交面で特筆されるのは不平等条約改正のための欧化政策の採用である。1883年鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張り、「鹿鳴館時代」を現出させ庶民の批判を浴びた。井上は財界との結び付きが強く、1899年には自ら有楽会(ゆうらくかい)を組織し、有力財界人との懇談の場を設けた。財界のなかでも三井との結び付きが強く、1900年(明治33)制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記され、死去するまで三井の経営、人事に多大な影響を与えた。

[春日 豊]

『井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公傳』全5巻(1933~1934・内外書籍/復刻版・1979・原書房)』


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朝日日本歴史人物事典 「井上馨」の解説

井上馨

没年:大正4.9.1(1915)
生年:天保6.11.28(1836.1.16)
明治大正期の政治家。号は世外。萩(長州)藩士井上光享の次男。安政2(1855)年同藩士志道慎平の養嗣子となり,参勤交代に随行して江戸に出て,蘭学,砲術を学ぶ。万延1(1860)年小姓役となり藩主より聞多の名を賜る。文久2(1862)年高杉晋作,伊藤博文らと英国公使館を襲撃するなど攘夷急進派として活動。3年伊藤らと英国に渡航,開国の必要を悟った。翌元治1(1864)年萩藩の外国船砲撃の報を聞き急遽帰国,英国公使パークスと藩当局の調停に奔走した。幕府の長州征討に対しては武備恭順,勢力温存策を唱えた。慶応2(1866)年高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加。薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器,外国船の購入などに携わった。維新政権の成立にともない参与職,外国事務掛,九州薩摩総督参謀,長崎裁判所参謀,外国事務局判事,長崎府判事兼外国官判事,長崎府武器修理御用掛などを務めたのち,明治2(1869)年大蔵省に移り造幣頭。民部大丞兼大蔵大丞,大阪府大参事心得を兼ね,造幣事業の進展に努力した。その後民部少輔,民部大輔を経て4年大蔵大輔となり,廃藩置県後の中央財政の確立,銀行,会社の創設に努めた。しかし大蔵省と井上グループの勢力増大に対する反発も強く,尾去沢銅山私有事件を追及され,6年5月辞職。その後,先収会社(のちの三井物産)の設立など実業にかかわったが,8年元老院成立で議官となり,9年江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち,欧州出張。11年7月帰国して参議兼工部卿。12年外務卿(のち外務大臣)。 このあとの8年間は,条約改正と対朝鮮および中国問題が主な外交問題であった。また条約改正作業と関連した欧化政策がある。条約改正では以前の個別交渉方式を捨て列国会議方式をとり,法権回復を優先させようとした。壬午事変(1882),甲申事変(1884),清仏事変(1884~85)などの対外問題では脱亜主義ではなく日清提携をふくむアジア主義的な策をとった。20年本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため,交渉を中止し外務大臣を辞任した。一時宮中顧問官に就いたのち,21年農商務大臣となるが,山県有朋内閣成立とともに辞職。第2次伊藤内閣(「元勲総出内閣」)で内務大臣。27年10月,朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出したが,借款政策をめぐる伊藤,陸奥宗光外相などとの対立,ロシアの朝鮮進出もあって不満のうちに翌28年辞任した。第3次伊藤内閣の大蔵大臣となり地租増徴をねらったが失敗。第4次伊藤内閣の後継首相の説もあったが桂太郎が首相となり,藩閥第2世代が内閣を担当する時代に移った。40年侯爵。その後も政界および財界の元勲の地位を保持した。議会開設後の対政党策をめぐる元老層の紛争を調停し,藩閥グループの結束と影響力の延命をはかるのに大きな役割を果たした。<参考文献>『世外井上公伝』全5巻(復刻,1968)

(酒田正敏)

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改訂新版 世界大百科事典 「井上馨」の意味・わかりやすい解説

井上馨 (いのうえかおる)
生没年:1835-1915(天保6-大正4)

幕末・維新から明治・大正初年にかけての政治家。財界とくに三井財閥との縁が深い。長州藩士の井上家は田地1町,畑4~5反をもつ100石の地侍であったが,彼は幕末期一時志道(しじ)家の養子となり,のち井上家に復帰。聞多の名は1860年(万延1),藩主毛利敬親(たかちか)の小姓役のとき藩主からもらったものである。号は世外。明倫館に学び,また蘭学,英学,砲術などを修業し,高杉晋作らと尊攘運動に参加した。63年(文久3),藩が馬関(下関)で攘夷実行を行うさなか,藩命で伊藤博文ら4名とともにロンドンへ密航したが,翌64年(元治1),四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り,急きょ伊藤と帰国,幕府の長州征伐と連合艦隊攻撃のはざまにあった長州藩のために講和を周旋した。この間,反対派に襲われて重傷,母の看護で一命をとりとめた。65年(慶応1),奇兵諸隊の鴻城軍総督となり,以後長州藩討幕運動に参画,68年(明治1)以後の新政府にあっては,参与,外国事務掛,会計官判事,造幣頭,民部大輔などを経て大蔵大輔となり,73年,各省の政費増加を不可として渋沢栄一とともに辞職した。また,尾去沢銅山事件などに関与し,先収会社などをおこして実業に手をのばした。75年,元老院議官となり,また翌年,特命副全権弁理大使として日朝修好条規(江華条約)を結び,同年渡欧,78年帰国した。以後,参議兼工部卿,法制局長官,外務卿などになり,条約改正に尽力。85年の第1次伊藤博文内閣では外相として欧化政策をとり,批判をうけて辞職。その後,農商務,内務,大蔵の各大臣を歴任,1901年には組閣の命をうけたが失敗し,晩年は元老の一人として政界に臨んだ。
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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「井上馨」の解説

井上 馨
イノウエ カオル


肩書
外相,元老

別名
幼名=勇吉 別名=井上 聞多(イノウエ モンタ) 号=井上 世外(イノウエ セガイ)

生年月日
天保6年11月28日(1836年)

出生地
周防国吉敷郡湯田村高田(山口県)

経歴
父は長州藩士。岩屋源三に蘭学を学んだ後、江川塾で砲術を修める。万延元年(1860)小姓役、のち尊王運動に身を投じ、文久2年(1862)高杉晋作らと外国公館襲撃を画策。3年伊藤博文と英国に留学。帰国後下関砲撃事件の講和にあたった。慶応元年(1865)から薩長連合に奔走し、倒幕後、新政府で明治4年大蔵大輔となったが、西郷派、江藤新平らと対立し、6年辞職。実業界に転じて三井組最高顧問となる。8年大阪会議の功により復帰し元老院議官、9年江華島事件処理の特命副全権弁理大臣として日韓修好条規を結んだ。11年参議兼工部卿、12年外務卿。18年第1次伊藤内閣の外相となり、鹿鳴館の建設などの欧化政策を推進し条約改正を試みたが失敗。第2次伊藤内閣の内相、第3次伊藤内閣の蔵相を歴任し、34年元老。40年侯爵。

没年月日
大正4年9月1日

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「井上馨」の解説

井上馨
いのうえかおる

1835.11.28~1915.9.1

幕末期の萩藩士,明治期の藩閥政治家。一時,志道(しじ)家の養子となり,1860年(万延元)藩主から聞多(もんた)の名を賜わる。号は世外(せがい)。尊攘運動にたずさわりイギリス公使館焼打に参加,のち伊藤博文らとイギリスに密航。維新後造幣頭・大蔵大輔などを歴任,留守政府と対立して一時退官。76年(明治9)全権副大臣として日朝修好条規を結ぶ。欧州出張後,参議兼工部卿をへて参議兼外務卿(のち外相)となり,85年漢城条約を締結。条約改正にあたったが,87年外国人法官任用問題などの紛糾で辞任。黒田内閣で農商務相となり自治党結成を試みたが失敗,大隈重信外相の条約改正に反対して同内閣崩壊の原因をつくった。第2次伊藤内閣で内相,第3次伊藤内閣で蔵相を務め,政友会結成にも関与。第4次伊藤内閣退陣後に組閣命令をうけたが,渋沢栄一が蔵相就任を断ったため辞退。以後は財政通の元老として活動。侯爵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井上馨」の解説

井上馨 いのうえ-かおる

1836*-1915 幕末-大正時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)6年11月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らとイギリスに渡航して攘夷(じょうい)から開国倒幕派に転じる。新政府の大蔵大輔(たいふ)となるが,実業界にうつり先収会社(のちの三井物産)を設立。明治12年外務卿,18年第1次伊藤内閣の外相となり,不平等条約改正のため鹿鳴館を中心に欧化政策をすすめるが,失敗。のち農商務相,内相,蔵相などをへて元老。侯爵。大正4年9月1日死去。81歳。周防(すおう)(山口県)出身。一時,志道聞多(しじ-もんた)を名のる。号は世外。
【格言など】政府をしっかりしたものにするには,皆掛りでやらねばならぬ,君もぜひ政府へ入れ(三井物産の益田孝に対して)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「井上馨」の意味・わかりやすい解説

井上馨
いのうえかおる

[生]天保6(1836).11.28. 長州
[没]1915.9.1. 興津
政治家。吉田松陰の松下村塾に学び,討幕運動に参加。明治政府では財政,外交の両面で業績を上げ,元老の一人として政界に大きな力をもった。しかし,その性格から政治指導の立場にはついに立つことなく政財界の斡旋者としての役割に終始した。それゆえに明治の元老のなかでは財界の利害を代弁することが最も多く,「三井の番頭」という批判をこうむらねばならなかった。侯爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「井上馨」の解説

井上馨
いのうえかおる

1835〜1915
明治時代の政治家
長州藩出身。幕末,尊王攘夷運動に参加。1879年外務卿,'85年外務大臣となり,鹿鳴館を中心として欧化政策をとって条約改正にあたったが失敗し,'87年辞職。その後内務大臣・大蔵大臣などを歴任し,'98年以降は元老として国政に参与した。また三井財閥と結び財界でも重きをなした。

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防府市歴史用語集 「井上馨」の解説

井上馨

 萩藩[はぎはん]出身の政治家で、伊藤博文[いとうひろぶみ]たちとイギリスに留学していましたが、1864年、下関砲撃事件[しものせきほうげきじけん]を聞いて帰国し、通訳として講和に参加しました。 明治維新の後は、外交や財政の大臣となっています。

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世界大百科事典(旧版)内の井上馨の言及

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

【銀座】より

…政府は大火を契機に煉瓦造建築で町並みを建設する計画を企てたが,その理由は銀座が外国人交通の要所となることを見越し,条約改正を有利に進めるための都市美装であった。計画を主導したのは大蔵大輔井上馨,東京府知事由利公正である。大火直後より,お雇い外国人ウォートルス原案になる煉瓦造家屋の仕様,土地買上げの布告などが次々に出され,72年3月末には東海道を15間に拡張する杭打ちを完了した。…

【クラブ】より

…また,国会開設前後になると東北俱楽部,庚寅俱楽部,大同俱楽部など政社にクラブの名をつけるものが多くなった。 このようななかで明治期の政治状況を顕著に表しているクラブが,井上馨外務卿が発起して84年に設立した東京俱楽部である。その主意には,〈修好の媒介を謀り,内外国人の交際を親密にせんが為め,海外諸国に現行するクラブの体裁に準拠し,茲に俱楽部を設立し,会員を募集す〉とある。…

【甲午改革】より

…その多くは開化派の年来の構想に基づいていたが,日本の軍事力を背景とした上からの改革という性格は免れがたく,死文化したものも少なくなかった。日本はさらに井上馨を公使に派遣して大院君を退ける一方,12月,日本亡命から戻った朴泳孝を加えて新内閣を発足させ,翌95年1月にはこれまでの改革条項を再整理した〈洪範十四条〉を高宗の名で宣布,改革の促進・定着を図った。だが,日本による過度のおしつけは開化派政権への反発を強め,三国干渉ののち日本勢力が後退して7月初旬に朴泳孝が追放されると,改革は一頓挫を余儀なくされた。…

【条約改正】より

…またこのころ,イギリス商人のアヘン密輸入を領事裁判所が無罪とするハルトレー事件や,ドイツ船が日本の検疫規則を無視して出港するヘスペリア号事件が起き,国内世論は法権回復が先決であるとして政府方針に批判的になり,交渉は中止された(1879年9月)。
[井上馨外相の交渉]
 自由民権運動は国民的後援のもとで列国に条約改正を迫るべきだとして,条約改正のためにも国民に参政権を与えよと主張した。井上馨外務卿は改正の重点を法権回復におき,司法省や外務省に外国人顧問を招いて法典の整備をいそぐ一方,欧化政策を進めた。…

【帝国ホテル】より

…東京都千代田区内幸町,日比谷公園に面してあり,1890年開業という古い歴史をもつ。ホテルの建設は,当時の外務大臣井上馨が首都東京に外国からの賓客をもてなす本格的ホテルがないのは国の恥だとして,渋沢栄一,大倉喜八郎といった実業界の実力者にホテル建設を勧めたことが契機となった。何回かの新増改築を経たが,とくに1923年のF.L.ライト設計による荘重な建物,また欧米で高級ホテルの経営を学んだ犬丸徹三(1887‐1981)の活躍などにより,その名声は世界的なものとなった。…

【東京[都]】より

…基盤が安定した政府が積極的に取り組みはじめたのが,官庁街の建設と市街地の改造である。
[官庁街]
 官庁街の計画はそれ以前にもいくつかの案がつくられたが,1886年には,外務大臣兼務の臨時建築局総裁井上馨のもとで,ドイツのエンデ・ベックマン事務所による計画案がつくられた。それは築地から日比谷,霞が関を含めた壮大なバロック都市計画であった。…

【三井物産[株]】より

…三井系企業集団の中核。井上馨(いのうえかおる)設立の貿易商社先収会社を,井上の政界復帰の際,三井組が引き継ぐことにより1876年設立された三井物産会社に始まる。初代社長には先収会社東京本店頭取であった益田孝が就任。…

【鹿鳴館】より

…館名は,中井弘(号桜州)が《詩経》の鹿鳴詩〈鹿鳴キ,群臣嘉賓燕スルナリ〉にちなんで命名したという。幕末に締結した諸外国との条約が不平等であったため,井上馨は外務卿に就任すると,条約改正の実現には内外人の交誼友好が不可欠であると考え,政府も風俗や習慣をはじめあらゆる方面にわたって欧化の政策を進めていった。まず上流階層の欧化がはかられ,外国使臣と交歓する官設娯楽社交場として設けられたのが鹿鳴館である。…

※「井上馨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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