幕末、攘夷(じょうい)派志士の二度に及ぶイギリス公使館襲撃事件。
1861年(文久1)5月28日夜半、水戸藩の攘夷派浪士、有賀半弥(ありがはんや)ら14名は、江戸高輪(たかなわ)東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、前日、陸路、東海道を下り帰着したばかりの公使オールコックらを襲った。館邸内の激闘で書記官オリファントと長崎駐在領事モリソンが負傷し、公使自身も公使館員の短銃による防戦によって危うく難を逃れた。遅れて駆けつけた日本側警備兵と浪士は邸外で闘い、双方、死傷者多数を出した。公使オールコックは、初めての館邸乱入事件により、東洋民族の排外運動の根強さを再認識したのであるが、日本側警備兵の働きにも認めるところがあったといわれる。イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドル支払いで事件は解決をみた。
しかし、この事件の一周年にあたる1862年(文久2)5月29日、東禅寺警備兵の1人、松本藩士伊藤軍兵衛(ぐんべえ)は、代理公使ニールを襲撃し、多大の藩財政の出費を強いる公使館警備の解除と、日本人相互の闘いを防ごうとした。伊藤は、イギリス水兵2名を殺害したが、自らも負傷し番小屋で自殺した。イギリス側警備兵は増強されたが、賠償金交渉が紛糾するうち8月に生麦(なまむぎ)事件が起こった。幕府は、生麦事件の賠償金承諾と同時に、償金1万ポンドというイギリスの要求をそのまま受諾した。
[井上勝生]
幕末の尊王攘夷派のイギリス公使館襲撃事件。1861年7月5日(文久1年5月28日)夜,攘夷派の水戸浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館を襲撃した。公使館書記官オリファントや,公使オールコックに同行して長崎から到着したばかりの長崎駐在領事モリソンが負傷するなど,双方に多数の死傷者を出した。このためイギリスは水兵を上陸させて公使館を直接警備し,翌年幕府は賠償金1万ドルを支払って事件はひとまず落着した(第1次東禅寺事件)。しかし62年6月26日(文久2年5月29日)夜,イギリス水兵とともに公使館の警備にあたっていた幕府・諸藩兵の一人,松本藩士伊藤軍兵衛が公使襲撃をめざして館内に侵入し,これを発見した水兵2人を殺害して自分も自殺した。このためイギリスはさらに警備水兵を増強し,これにひきつづいた生麦事件ともからんで交渉は難航,翌年幕府が賠償金1万ポンド(約4万ドル)を支払ってやっと解決した(第2次東禅寺事件)。
執筆者:芝原 拓自
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1861年(文久元)と62年の2度にわたる江戸高輪東禅寺のイギリス仮公使館襲撃事件。(1)61年5月28日,水戸藩尊攘派有賀半弥らがイギリス公使オールコックの国内旅行に怒り,仮公使館を襲撃。書記官L.オリファントと長崎領事G.モリソンが負傷した。オールコックは62年2月16日賠償金1万ドルと公使館建設を獲得,事件は落着した。(2)62年5月29日,警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が代理公使ニールらの滞在する仮公使館を襲撃。イギリス水兵や大垣・岸和田・松本3藩士ら約500人が警備するなか,水兵2人を殺害し逃走,自刃。賠償金1万ポンド(約4万ドル)は63年の生麦事件賠償金支払の際に支払われた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新