幕末・明治前期の公卿(くぎょう)、太政(だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保(てんぽう)8年2月7日、三条実万(さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華(きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従(じゅ)五位上に叙せられ元服、侍従となり出仕。父実万は議奏(ぎそう)、内大臣などを歴任し朝廷政治の中枢にあり、攘夷派(じょういは)公卿として幕末政治に活躍した。実美も父の意を継ぎ、尊攘強硬派公卿として政治運動を展開、1862年(文久2)には千種有文(ちぐさありふみ)、岩倉具視(いわくらともみ)ら公武合体派の公卿を弾劾し排斥運動を姉小路公知(あねがこうじきんとも)らと行った。同年権中納言(ごんちゅうなごん)ついで議奏に昇進、10月には将軍徳川家茂(いえもち)に対する攘夷の朝旨伝達と督促のため、姉小路公知とともに勅使として江戸に赴き、かつ朝使の待遇改善などの要求もあわせて行った。12月新設の国事御用掛。1862年から1863年にかけて尊攘運動の最盛期に、尊攘派公卿の代表的立場を占め、長州藩尊攘派と結び、攘夷親征、大和行幸(やまとぎょうこう)などの画策にあたった。しかし1863年「文久三年八月十八日の政変」で朝議が一変し、攘夷派は参朝停止、官位剥奪(はくだつ)となり、実美ら7人の攘夷派は京都を追放され長州藩に逃れた(七卿落(しちきょうおち))。1865年(元治2)1月長州から大宰府(だざいふ)に移されたが、1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターの結果、官位復旧、入京許可となり、12月27日入京、即日新政府の議定(ぎじょう)の要職についた。1869年(明治2)7月右大臣、71年7月から太政大臣となり明治政府の最高官となった。1885年内閣制度実施に伴い内大臣に転じ、1889年黒田清隆(くろだきよたか)内閣崩壊の際に一時期内閣総理大臣を兼任した。またこの間1883年には華族会館長となっている。廃藩前後から政治の実権が諸藩出身官僚に移ったあとも、公卿、諸侯層を代表し、種々の対立の調停者としての役割を果たした。しかし政治的決断力は弱く、1873年の征韓論争の際には、征韓派と反対派の対立の間に挟まり、処置に困って煩悶(はんもん)、心痛のあまり発熱して病床につく事態ともなった。明治24年2月18日没。公爵。墓所は東京都文京区の護国寺にある。
[佐々木克]
『『三条実美公年譜』(1969・宗高書房)』▽『『三条家文書』復刻版(1972・東京大学出版会)』
幕末・維新期から明治前半期の公卿,政治家。京都梨木町の三条実万(さねつむ)の第4子。幼名は福麿(よしまろ)。母は土佐藩主山内豊策(とよかず)の三女紀子。和漢の学に通じ尊攘思想の持ち主であった富田織部(後藤一郎)に学んでその影響を強く受け,1853年(嘉永6)のペリー来航後の政治情勢の中では尊攘派急進公卿の一人に数えられた。62年(文久2)幕府に攘夷策実行を促す朝廷の正使となり,翌63年の文久3年8月18日の政変までは尊攘派公卿として活躍し,国事御用掛,京都御守衛御用掛,賀茂社行幸御用掛などを務めた。当時,彼の周辺には真木和泉や久坂玄瑞などがいた。政変後は〈七卿落〉の一人として長州さらに太宰府へ落ちのび,官位を剝奪された。67年(慶応3)12月ふたたび上洛,維新政府になると議定,関東監察使,副総裁,外国事務取調掛,議定兼輔相,右大臣などを歴任,69年(明治2)には永世禄5000石を下賜され,修史局総裁になった。71年には右大臣のまま神祇伯,宣教長官を兼ね,さらに太政大臣となって岩倉使節団を米欧に派遣した。73年,使節団帰国後の征韓論の分裂ではその収拾ができず,岩倉具視に委ね,いわゆる明治6年10月の政変をもたらした。以後85年の内閣制まで太政大臣の地位にあり,内閣制後は内大臣,一時内閣総理大臣を兼任した。公卿出身の岩倉が権謀術数の政治家なら,三条は政治力学の緩衝ないし利用しやすい政治家だったといえる。
執筆者:田中 彰
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(佐々木克)
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1837.2.7~91.2.18
幕末~明治前期の尊攘派公卿・政治家。内大臣三条実万(さねつむ)の四男。1862年(文久2)国事御用掛となり,攘夷決行を求める別勅使として江戸に下る。翌年,孝明天皇の石清水行幸(攘夷祈願)を実現させるなど尊王攘夷運動に従事したが,8月18日の政変で長州に逃れた(七卿落ち)。王政復古後に帰京し,議定・大納言・右大臣などをへて71年(明治4)太政大臣となったが,征韓論争では指導力を発揮できず急病となる。明治10年代に入ると地位はしだいに形式的なものとなり,内閣制度の開設にともない内大臣に転じた。その後も華族のまとめ役として活動したが,89年,黒田清隆首相の退陣後は内大臣のまま2カ月間首相を兼務,大隈条約改正交渉の中止作業にあたった。公爵。
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…義務教育が始まり,書道においては御家流を改めて唐様系の書を採用し,巻菱湖の書が学校教育に受け入れられて,その系統の村田海石(1835‐1912)の習字手本が多く用いられた。御家流はしだいに影をひそめつつあったおりしも,三条実美らによって平安時代の名跡を研究する難波津会が組織された。これは華族や大名家に秘蔵の名品を実査し,和様書道の源流を極めんとするもので,小野鵞堂や後年西本願寺で《三十六人集》を発見した大口周魚(1864‐1920)もその会員であった。…
…公家の家格の一つ。摂関家につぎ,大臣家の上にあって,近衛大将を経て,太政大臣に昇進できる家柄。また,華族,英雄家などともいう。家格は平安時代末から徐々に形成され,鎌倉時代にほぼ固定して七清華といわれた。すなわち三条家(俗称,転法輪)をはじめ,西園寺家およびその分流の今出川(菊亭)家,徳大寺家(以上,閑院家流),また花山院家および大炊御門(おおいみかど)家(以上,花山院流)の藤原氏北家の流れをくむ6家に,源氏の久我(こが)家を加えた7家をいう。…
…翌73年に入り,朝鮮側の排外鎖国政策は〈洋夷〉への反感と相まって高まり,日本との修交を依然がえんじなかった。かくして三条実美太政大臣は閣議に対朝鮮問題を論じた議案を付し,そのなかで〈今日ノ如キ侮慢軽蔑之至ニ立到リ候テハ,第一朝威ニ関シ国辱ニ係リ,最早此儘閣(お)キ難ク,断然出師之御処分之(これ)無クテハ相成ラザル事ニ候〉(一部読下し)といい,当面,陸海の兵を送って韓国の日本人居留民を保護し,使節を派して〈公理公道〉を朝鮮政府に説くことを提議した。参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず,使節にみずからがなろうとし,板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,大隈重信,大木喬任の諸参議が賛同していったん内定はしたものの,正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととした。…
※「三条実美」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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