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三条実美 さんじょう さねとみ

美術人名辞典の解説

三条実美

幕末・明治の公卿・政治家。公爵。京都生。三条実万の四男。号は梨堂。尊攘派公卿の中心人物となるが、会津・薩摩を中心とする公武合体派のクーデターにより、七卿落ちの一人として長州へ逃れた。維新後は明治新政府に重用され、太政大臣内大臣等を歴任するなど国家建設に尽力した。明治24年(1891)歿、55才。

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デジタル大辞泉の解説

さんじょう‐さねとみ〔サンデウ‐〕【三条実美】

[1837~1891]幕末・明治前期の公家・政治家。実万(さねつむ)の四男。急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。文久3年(1863)8月18日の政変七卿落ちの一人として長州に逃れた。明治維新後は新政府の議定・太政大臣・内大臣などを歴任。

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百科事典マイペディアの解説

三条実美【さんじょうさねとみ】

幕末の尊攘派の公卿。三条実万(さねつむ)の子。14代将軍徳川家茂に攘夷督促(とくそく)の朝命を伝えるなど,尊攘派公卿の先鋒(せんぽう)となり運動したが,1863年文久3年8月18日の政変で失脚し,七卿落(しちきょうおち)の一人として長州,さらに大宰府に落ち,王政復古を機に上京。
→関連項目イギリス公使館焼打事件内大臣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三条実美 さんじょう-さねとみ

1837-1891 幕末-明治時代の公卿(くぎょう),政治家。
天保(てんぽう)8年2月7日生まれ。三条実万(さねつむ)の4男。尊攘(そんじょう)派公卿の中心人物として活躍したが,文久3年八月十八日の政変で長州にのがれる(七卿落ち)。王政復古を機に京都にかえり議定,副総裁,右大臣をへて太政大臣をつとめ,明治18年内大臣となる。22年一時首相を兼任した。明治24年2月18日死去。55歳。
【格言など】行けや,海に火輪を転じ(岩倉具視使節団への送別の辞)

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朝日日本歴史人物事典の解説

三条実美

没年:明治24.2.18(1891)
生年:天保8.2.7(1837.3.13)
幕末明治期の公卿,政治家。正一位右大臣三条実万と土佐(高知)藩主山内豊策の娘紀子の子。公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で,禄は約469石。梨堂と号す。家臣の尊攘志士富田織部の訓育を受け,漢学者志士池内大学に学んだ。安政6(1859)年,大老井伊直弼の弾圧を受けて父実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ,次第に尊攘思想を強めていく。文久2(1862)年従三位。権中納言。尊攘運動はこの年の後半から最盛期を迎えるが,実美は公家尊攘派の中心となって公武合体派の公家岩倉具視を弾劾,勅使となって江戸城に赴き幕府に攘夷の実行を督促するとともに勅使の待遇を改めさせ,朝幕の力関係の逆転を策した。翌年,薩摩藩等公武合体派の策謀による8月18日の政変で長州藩士ら尊攘派が追放されると,京都から長州に下った(七卿落ち)。慶応1(1865)年,幕長間の紛争に巻き込まれるのを避けて太宰府に移り,同3年12月,同地で王政復古を迎えた。 翌明治1(1868)年1月9日,岩倉と共に副総裁に就任。同年閏4月江戸に赴き,関東鎮撫の責任者となる。この年,王政復古の功績により永世禄5000石を下賜されている。同4年天皇を輔弼する政府の最高責任者,太政大臣となる。同6年には征韓論を巡って対立する西郷隆盛と大久保利通の間に入って悩み抜き,熱を出して右大臣の岩倉が職務を代行した。幕末の経歴と高い家柄から政府ナンバーワンの地位にあったが,元来決断力が弱く,政治的発言も比較的少ない人物で,この一件以後さらに控えめとなった。同18年内閣制度が成立し,新設の内大臣となったのちは政治の第一線から退くが,天皇輔弼の任は変わらず,華族最高ランクの公爵として皇室の藩屏たる華族社会のまとめ役となった。フレイザー英国公使夫人は当時の実美を「政治にはもう飽きあきした,上品な紳士」と評している。<参考文献>『三条実美公年譜』

(佐々木克)

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防府市歴史用語集の解説

三条実美

 外国を打ち払って、天皇中心の社会を作ろうとしていましたが、1863年の8月18日の政変[はちがつじゅうはちにちのせいへん]によって京都を追い出され、三田尻御茶屋[みたじりおちゃや]に逃げ込んだ七卿[しちきょう]の1人です。明治時代になってからは、政治家として太政大臣[だじょうだいじん]などをつとめます。1889年に2ヶ月ほど首相[しゅしょう]になったこともあります。

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世界大百科事典 第2版の解説

さんじょうさねとみ【三条実美】

1837‐91(天保8‐明治24)
幕末・維新期から明治前半期の公卿,政治家。京都梨木町の三条実万(さねつむ)の第4子。幼名は福麿(よしまろ)。母は土佐藩主山内豊策(とよかず)の三女紀子。和漢の学に通じ尊攘思想の持ち主であった富田織部(後藤一郎)に学んでその影響を強く受け,1853年(嘉永6)のペリー来航後の政治情勢の中では尊攘派急進公卿の一人に数えられた。62年(文久2)幕府に攘夷策実行を促す朝廷の正使となり,翌63年の文久3年8月18日の政変までは尊攘派公卿として活躍し,国事御用掛,京都御守衛御用掛,賀茂社行幸御用掛などを務めた。

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大辞林 第三版の解説

さんじょうさねとみ【三条実美】

1837~1891) 幕末・明治時代の政治家。実万さねつむの子。七卿落ちの一人として長州藩に逃れた。王政復古後、新政府の議定となり、副総裁・輔相などの要職を経て、太政大臣にのぼる。のち内大臣。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三条実美
さんじょうさねとみ

[生]天保8(1837).12.8. 京都
[没]1891.2.18. 東京
明治維新期の公卿。幕末,尊王攘夷派公卿の中心となり,長州藩と提携,朝権確立と攘夷実現に奔走。王政復古後,太政大臣に進み,1885年内大臣,89年 10~12月臨時首相を兼ねた。正一位,大勲位,公爵。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三条実美
さんじょうさねとみ
(1837―1891)

幕末・明治前期の公卿(くぎょう)、太政(だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保(てんぽう)8年2月7日、三条実万(さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華(きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従(じゅ)五位上に叙せられ元服、侍従となり出仕。父実万は議奏(ぎそう)、内大臣などを歴任し朝廷政治の中枢にあり、攘夷派(じょういは)公卿として幕末政治に活躍した。実美も父の意を継ぎ、尊攘強硬派公卿として政治運動を展開、1862年(文久2)には千種有文(ちぐさありふみ)、岩倉具視(いわくらともみ)ら公武合体派の公卿を弾劾し排斥運動を姉小路公知(あねがこうじきんとも)らと行った。同年権中納言(ごんちゅうなごん)ついで議奏に昇進、10月には将軍徳川家茂(いえもち)に対する攘夷の朝旨伝達と督促のため、姉小路公知とともに勅使として江戸に赴き、かつ朝使の待遇改善などの要求もあわせて行った。12月新設の国事御用掛。1862年から1863年にかけて尊攘運動の最盛期に、尊攘派公卿の代表的立場を占め、長州藩尊攘派と結び、攘夷親征、大和行幸(やまとぎょうこう)などの画策にあたった。しかし1863年「文久三年八月十八日の政変」で朝議が一変し、攘夷派は参朝停止、官位剥奪(はくだつ)となり、実美ら7人の攘夷派は京都を追放され長州藩に逃れた(七卿落(しちきょうおち))。1865年(元治2)1月長州から大宰府(だざいふ)に移されたが、1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターの結果、官位復旧、入京許可となり、12月27日入京、即日新政府の議定(ぎじょう)の要職についた。1869年(明治2)7月右大臣、71年7月から太政大臣となり明治政府の最高官となった。1885年内閣制度実施に伴い内大臣に転じ、1889年黒田清隆(くろだきよたか)内閣崩壊の際に一時期内閣総理大臣を兼任した。またこの間1883年には華族会館長となっている。廃藩前後から政治の実権が諸藩出身官僚に移ったあとも、公卿、諸侯層を代表し、種々の対立の調停者としての役割を果たした。しかし政治的決断力は弱く、1873年の征韓論争の際には、征韓派と反対派の対立の間に挟まり、処置に困って煩悶(はんもん)、心痛のあまり発熱して病床につく事態ともなった。明治24年2月18日没。公爵。墓所は東京都文京区の護国寺にある。[佐々木克]
『『三条実美公年譜』(1969・宗高書房) ▽『三条家文書』復刻版(1972・東京大学出版会)』

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世界大百科事典内の三条実美の言及

【書】より

…義務教育が始まり,書道においては御家流を改めて唐様系の書を採用し,巻菱湖の書が学校教育に受け入れられて,その系統の村田海石(1835‐1912)の習字手本が多く用いられた。御家流はしだいに影をひそめつつあったおりしも,三条実美らによって平安時代の名跡を研究する難波津会が組織された。これは華族や大名家に秘蔵の名品を実査し,和様書道の源流を極めんとするもので,小野鵞堂や後年西本願寺で《三十六人集》を発見した大口周魚(1864‐1920)もその会員であった。…

【清華家】より

…公家の家格の一つ。摂関家につぎ,大臣家の上にあって,近衛大将を経て,太政大臣に昇進できる家柄。また,華族,英雄家などともいう。家格は平安時代末から徐々に形成され,鎌倉時代にほぼ固定して七清華といわれた。すなわち三条家(俗称,転法輪)をはじめ,西園寺家およびその分流の今出川(菊亭)家徳大寺家(以上,閑院家流),また花山院家および大炊御門(おおいみかど)家(以上,花山院流)の藤原氏北家の流れをくむ6家に,源氏の久我(こが)家を加えた7家をいう。…

【征韓論】より

…翌73年に入り,朝鮮側の排外鎖国政策は〈洋夷〉への反感と相まって高まり,日本との修交を依然がえんじなかった。かくして三条実美太政大臣は閣議に対朝鮮問題を論じた議案を付し,そのなかで〈今日ノ如キ侮慢軽蔑之至ニ立到リ候テハ,第一朝威ニ関シ国辱ニ係リ,最早此儘閣(お)キ難ク,断然出師之御処分之(これ)無クテハ相成ラザル事ニ候〉(一部読下し)といい,当面,陸海の兵を送って韓国の日本人居留民を保護し,使節を派して〈公理公道〉を朝鮮政府に説くことを提議した。参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず,使節にみずからがなろうとし,板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,大隈重信,大木喬任の諸参議が賛同していったん内定はしたものの,正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととした。…

【梨木神社】より

…京都市上京区にあり,三条実万(さねつむ),三条実美(さねとみ)父子をまつる。実万は幕末の外交政策刷新などに活動し,孝明天皇に信任されたが,安政の大獄に際して落飾した。…

※「三条実美」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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