日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギー・ポップ」の意味・わかりやすい解説
イギー・ポップ
いぎーぽっぷ
Iggy Pop
(1947― )
パンク・ロックの先駆けをなしたボーカリスト。イギー・ポップことジェームズ・ジュエル・オスターバーグJames Jewell Osterbergはミシガン州で生まれ、デトロイト近郊で育つ。高校時代に初めてロック・グループを結成し、ドラムを担当していた。1967年19歳のときに、幼なじみのロン・アシュトンRon Asheton(1948―2009、ギター)とその弟のスコット・アシュトンScott Asheton(1949―2014、ドラムス)とともにストゥージスを結成。翌1968年にデーブ・アレグザンダーDave Alexander(1947―1975、ベース)を迎え、活動を本格化する。
ドアーズのボーカリスト、ジム・モリスンJim Morrison(1943―1971)に影響を受けたイギーは、ステージを暴れ回り観客席に飛び込み、しまいにはガラス片で自分の体を傷つけるまでに至る過激なパフォーマンスを展開し、ストゥージスの評判は高まった。当時全米を覆っていたフラワー・ムーブメントの楽天性にストゥージスは反旗を翻(ひるがえ)し、同じデトロイトのグループ、MC5とともに過激で暴力的なハード・ロックをぶつけていた。
1969年、ストゥージスはエレクトラと契約を結び、ベルベット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルJohn Cale(1940― )のプロデュースによって、わずか2日間で録音されたデビュー・アルバム『ザ・ストゥージス』(1969)を発表。続いて『ファン・ハウス』(1970)を発表する。しかしグループにドラッグ問題が生じ、エレクトラは契約を解除。グループは実質的に解散状態に陥る。
イギーはニューヨークに移り、デビッド・ボウイと親交を結ぶ。当時大スターだったボウイはイギーを敬愛しており、ストゥージスのために新たなレコード契約を取り付けることとなる。ストゥージスはジェームズ・ウィリアムソンJames Williamson(1949― 、ギター)を加入させ、イギリスでサード・アルバム『ロウ・パワー』(1973)を録音、発表する。イギーのセンセーショナルなボーカルとパフォーマンスは話題をよぶが、それがエスカレートしていくにしたがってグループ内の不協和音は増していった。イギー自身もドラッグに深くのめり込んでいき、1974年ストゥージスは解散。イギーはロサンゼルスの精神科病院でリハビリに努めることとなる。
1975年にイギーはウィリアムソンやボウイらとともにデモテープを制作、1976年になるとソロ・アルバムの制作に入る。ボウイのプロデュースのもと、パリで録音された初のソロ・アルバム『ザ・イディオット』(1977)は、ストゥージス時代の暴力的な雰囲気は控えられ、イギーの知的で文学的な側面を前面に押し出した作品となった。
『ラスト・フォー・ライフ』(1977)、ライブ・アルバムの『ティービー・アイ』(1978)と順調にアルバムをリリースする一方、おりからのパンク・ロックのブームのなかで、イギーは「パンクのゴッドファーザー」として評価された。ダムドやセックス・ピストルズら多くのパンク・グループがストゥージスの曲をカバーし、ストゥージス時代のイギーの過激なパフォーマンスはパンク・ロッカーたちの手本となった。
1980年代前半のイギーは地味なアルバムを数枚リリースするが、ふたたびロック界の表舞台に立つのは『ブラー・ブラー・ブラー』(1986)まで待たなければならなかった。この作品で骨太なアメリカン・ロッカーとしての姿を示したイギーは、以後も若い世代のミュージシャンと交流しつつ安定した活動を続けている。
[増田 聡]