日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィリアムソン」の意味・わかりやすい解説
ウィリアムソン(イギリスの化学者 Alexander William Williamson)
うぃりあむそん
Alexander William Williamson
(1824―1904)
イギリスの化学者。ロンドンのウォンズワースにおいてスコットランド人の第2子として生まれる。幼少時より体が弱く、右目が見えないうえ左手が不自由であった。父の勧めでドイツのハイデルベルク大学で医学を学んだが、そのときグメーリンの講義に興味をもち、化学を専攻することになった。1844年よりギーセン大学でリービヒに学び、1846年にはパリに行き、個人の化学研究室をつくって、ローランやジェラール(ゲルアルト)ら化学者たちと親しく交わり、コントに数学を学んだ。1849年ロンドン大学の分析化学の教授、1855年T・グレアムの後を継いで同大学一般化学の教授となり、1887年ラムゼーにそれを譲るまで続けた。退職後故郷に退き、80歳で没した。
おもな業績は「エーテル生成の理論」(1850)で、アルコールの置換体を得ようとして実験中、エーテルが合成できることをみいだし、当時混乱していたアルコールとエーテルの構造の関係を明らかにした。この理論は歴史的に二つの重要性をもつ。一つは触媒反応において中間生成物を、いま一つは化学反応の動的平衡を初めて考えたことである。この合成法によってメチルエチルエーテルなど種々のエーテルを合成した。また『塩の構成』(1851)の論文中に「水型説」を提唱し、分子構造論の進歩に寄与した。1860年以降は原子論を擁護し、反対論者と論争した。
日本に対する貢献が大きく、1863年、長州藩の伊藤博文(ひろぶみ)、井上馨(かおる)、山尾傭三(ようぞう)(1837―1917)、井上勝(まさる)、遠藤謹介(1836―1893)の5人を自宅へ寄泊させたのをはじめ、森有礼(ありのり)ら16人の日本人青年の世話をした。また1874年、彼の助手のアトキンソンを「お雇い外国人教師」として日本へ派遣、さらに1876年には留学生桜井錠二(じょうじ)を迎え、1881年まで直接に化学を指導するなど、日本の化学者の育成に尽力した。
[岩田敦子]
ウィリアムソン(アメリカの経済学者 Oliver E. Williamson )
うぃりあむそん
Oliver E. Williamson
(1932―2020)
企業統治研究を専門とするアメリカの経済学者。1932年、アメリカのウィスコンシン州スペリオル市生まれ。マサチューセッツ工科大学を卒業し、スタンフォード大学でMBA、カーネギー・メロン大学で経済学博士号をそれぞれ取得。エール大学教授などを歴任し、カリフォルニア大学バークリー校教授を務める。「経済統治economic governance、とくに企業の境界の分析」における卓越した業績により、2009年のノーベル経済学賞を受けた。アメリカの政治・経済学者、エリノア・オストロムとの共同受賞。政府による規制に頼らなくても、「市場の失敗」を補完する経済統治という仕組みがあることを解明した。
企業取引はすべて市場を介するわけではなく、大企業内や系列取引など多様な形態がある。ウィリアムソンは市場取引と企業内取引(企業統治)がいかなる場合に発生するかを取引コストの観点から分析。数多くの事例を踏まえ、複雑なため事前に完全な契約を結ぶことがむずかしく、交渉決裂のコストが大きな取引は、市場よりも企業内取引で行うほうが望ましいという理論予想を構築した。同理論はその後、定式化が進み、契約の経済理論や組織の経済学の発展に寄与した。
[矢野 武]