イリュリクム(その他表記)Illyricum

改訂新版 世界大百科事典 「イリュリクム」の意味・わかりやすい解説

イリュリクム
Illyricum

インド・ヨーロッパ語族に属する言語を使用した諸部族のうちのイリュリア人が居住した地域。イリュリア人の諸部族は前3千年紀の後半からバルカン半島の西部地域に定住し始め,前1千年紀にはギリシア人の植民交易活動に対して好戦的な態度を示したが,諸部族が連合して統一国家を形成することはなかった。前3世紀後半からのローマ軍侵攻に対しても,イリュリア人の諸部族は執拗な抵抗を繰り返したが,長期にわたる戦闘攻防の末に,前27年以後,この地域は元老院管轄属州イリュリクムとしてローマ帝国に併合された。前11年には皇帝直轄属州としての体制が整えられた。やがて一部の部族の反乱が鎮圧されると,後9年に二つの属州に分割され,これらが属州ダルマティア(現在のユーゴスラビアダルマツィア)と属州パンノニア(現在のハンガリーの地方)として知られるようになった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イリュリクム」の意味・わかりやすい解説

イリュリクム
Illyricum

バルカン半島北西部,イリュリアの地に設置された古代ローマの属州。南はドリロン (現ドリン) 川,北はイストリア,東はサウウス (現サバ) 川で限られ,行政中心地はダルマチアサロナエ (現スプリット) であった。元来この地は前 10世紀頃からイリュリア人が定住,ハルシュタット文化を築いていた。マケドニア後援でローマと抗争したが,前 168年その力に屈した。属州はローマ帝国がドナウ川に沿って発展するにつれ,ダルマチア,パンノニア2州に分割され,395年の帝国分裂で,ドリロン川以東は東ローマ (ビザンチン) 帝国領となった。3~5世紀には西ゴート人とフン族に侵入され,6世紀から侵入を始めたスラブ族によって,7世紀終りには,現在のアルバニアを除いてスラブ人の地となった。

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世界大百科事典(旧版)内のイリュリクムの言及

【パンノニア】より

…ローマ帝国の属州の一つで,現在のほぼハンガリーに当たるパンノニ族Pannoniiの居住地域。後9年イリュリクムは二つの属州に分割され,ドナウ川西岸地域一帯がパンノニアと呼ばれるようになった。ローマ軍団の前衛基地がドナウ川中流沿岸のカルヌントゥムに設けられ,下方のアクインクムとともにこの地方の政治,経済,文化の中心地として栄えたが,都市化の進展は目だったほどではなかった。…

【ローマ】より

…一方イタリア北部に対しても,ボイイ族(前224‐前220),インスブレス族(前200‐前191)を破ってガリア・キサルピナを確保し,リグリア族(前197‐前154),ヒストリア族(前178‐前177),およびダルマティア海岸(前156‐前155,前129)を制圧,マッシリア(現,マルセイユ)からバルカン半島西岸に至る一帯を勢力下に入れた。 他方東部地中海に向かっては,アドリア海の海賊撲滅に続き,イリュリクム王国と2度の戦争(前229‐前228,前219)でこれを破ってイリュリクム海岸を勢力下に入れ,カルタゴの将軍ハンニバルの同盟者マケドニアの王フィリッポス5世と戦い(第1次マケドニア戦争。前214‐前205),これを制し,マケドニアの勢力回復におびえたロドスとペルガモンの求めに応じてローマは第2次マケドニア戦争(前200‐前196)に踏み切り,将軍フラミニヌスはテルモピュライでマケドニア軍を破った。…

※「イリュリクム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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