アルバニア(読み)あるばにあ(英語表記)Albania

翻訳|Albania

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルバニア」の意味・わかりやすい解説

アルバニア
あるばにあ
Albania

南東ヨーロッパ、バルカン半島南西部に位置する共和国。正称は、シュチペリア共和国Republika e Shqipërisë。シュチペリアは「鷲(わし)の国」の意味で、国章と国旗に双頭の鷲の図柄が使用されている。北東はコソボ、北西はモンテネグロ、東は北マケドニア共和国、南はギリシアに隣接し、西はアドリア海に面し、その対岸にイタリアがある。面積は2万8748平方キロメートルで、四国の約1.5倍の大きさである。人口306万9275(2001年センサス)。1人当り国民総生産(GDP)は3360ドル(2007)。首都チラナ特別市ほか36の行政区(県)に分かれている。第二次世界大戦後、厳格なスターリン型共産主義体制をとって、共産圏諸国が体制改革に乗り出すなかで一種の鎖国政策を進めていたが、1990年以降は、ほかの東ヨーロッパ諸国同様、複数政党制による選挙が実施されて非共産主義政権が成立し共和制となり、欧米寄りの政策を進めている。

[齋藤 厚]

自然

南北340キロメートル、東西の最大幅150キロメートルの細長い国で、海岸沿いの平野のほかは起伏に富む山地であり、国土の7割が標高300メートル以上の風光明媚(めいび)な国である。コソボ、モンテネグロおよび北マケドニア共和国との国境地帯にはコラブ山(2751メートル)をはじめディナル・アルプス系の2000メートル級の山々が連なる。北マケドニア共和国から流入するドリン川が国内280キロメートルを流れ、河口付近は分流して、ブーネ川など他の数条の河川とともにアドリア海に注ぐ。湖では北部のシュコーデル湖(約360平方キロメートル)、南東部のオフリド湖、プレスパ湖がいずれも国境上にある。海岸地帯は温暖な地中海性気候で、降雪はまれである。内陸部は大陸性気候で、冬季に積雪がある。年降水量は全国平均で1000ミリメートルを超す。夏の最高気温は30℃を超え、冬の最低気温は海岸で0℃前後、内陸部の諸都市で零下10℃以下となる。国土の4割余りが耕地や牧草地、同じく4割余りが森林で、カシワ、ブナ、マツが多い。

[齋藤 厚]

地誌

首都チラナは、繊維、化学、食品工業などが発達し、その生産高は全鉱工業生産の4分の1前後に上る。そのほか、中部の港湾都市ドゥレスでは、化学、軽工業、北部の都市シュコーデルではたばこや金属工業などの産業があるが、生産施設の老朽化が甚だしく、1990年に市場経済化を開始して以降は未稼働の工場も多い。アルバニアは、地下資源に恵まれ、中部と南部の海岸地帯では石油を、また、北部と東部の山岳地帯ではクロム、鉄、銅、ニッケルなどを産出し、それにあわせて付近の都市に精製または製錬施設が建設されている。さらに、北部と東部では、山がちな地形を生かした水力発電所が多数建設されている。農業は、海岸平野部を中心に行われ、小麦、綿花、果実類、タバコ、ジャガイモ、トマト、オリーブ、ビート(テンサイ)などが主作物である。

[齋藤 厚]

歴史

アルバニア人は自らを古代イリリア人(バルカン先住民族、紀元前2世紀に滅亡)の子孫と称しているが、その正確な起源は不明である。現在のアルバニア人の領土は、古代ローマ帝国、ついで東ローマ帝国の版図(はんと)に入り、7世紀以降はビザンティン帝国ブルガリア帝国ラテン帝国セルビア帝国の支配を受けた。なお、11世紀のビザンティン帝国の史書においてアルバニア人の名が歴史上初めて登場する。14世紀にオスマン・トルコのバルカン侵入に伴いその支配下に組み込まれると、以後5世紀間トルコ帝国の支配を受け、住民のイスラム教化が進行した。途中、15世紀なかばに一豪族のスカンデルベグがトルコの支配に抗して蜂起(ほうき)し、1443年以来25年間トルコの大軍を撃退し続けた。スカンデルベグは今日民族的英雄となっており、現在の国旗は彼の旗に由来している。

 1878年、民族意識の高まりのなかにプリズレン(現、コソボ共和国内南部の都市)でアルバニア国民連盟(プリズレン連盟)が結成され、トルコ軍と衝突した。1912年、第一次バルカン戦争におけるトルコの敗退に際し、イスマイル・チェマルIsmail Qemali(1844―1919)の率いる一団がブローラにおいて独立を宣言、臨時政府を組織した。1913年、列強はロンドンの大使会議においてアルバニアを列強の後見のもとに独立させることを決め、国境を画定し、1914年ドイツ貴族ウィルヘルム・ウィートWilhelm von Wied(1876―1945)がアルバニア王として送り込まれた。しかし彼は国内に根を下ろしえず、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後まもなく国外に去り、戦火のなかで、オーストリア、ついでイタリアに占領された。1920年イタリア軍を追い出して独立を回復、国際連盟に加入した。その後、地主出身のアフメット・ゾーグが台頭し、一時は進歩的なファン・ノーリFan Stilian Noli(1882―1965)政権にとってかわられた(1924)ものの、返り咲いて大統領となり、1928年には王制を宣言して自ら国王(ゾーグ1世)となった。経済的にはイタリアへの依存を強め、1939年イタリアに武力併合されてゾーグは亡命し、第二次世界大戦中、イタリアの降伏後はドイツに占領された。

 1941年にはアルバニア共産党が結成されてパルチザン闘争を開始し、1944年10月エンベル・ホッジャを首班として臨時政権を樹立、同年11月末までに自力で全土を解放し、1946年1月人民共和国を宣言して社会主義国となった。1961年、中ソ論争に際してソ連圏から離脱し、中国の盟友となってその援助を受けた。1978年、イデオロギー論争を契機として中国は援助を打ち切ったが、国交は継続する。以後、アルバニアは外国からの援助をいっさい拒否して孤立化・自力更正政策を進めた。しかし、1985年のホッジャの死後、国際情勢の変化や経済悪化から孤立化・自力更正政策の続行は困難になり、ホッジャの後を受けた党第一書記ラミズ・アリアRamiz Alia(1925―2011)は緩やかな開放政策を推進した。

 1990年、東ヨーロッパ諸国の民主化の影響を受け、さらに国内からイタリアやギリシアに難民が大量流出するに及んで大幅な民主化政策の導入に迫られた。1991年、国名がアルバニア社会主義人民共和国からアルバニア共和国に変更されるとともに、大統領制が導入された。また、戦後初めての複数政党制による選挙が実施され、旧労働党(共産党)の社会党が勝利し、民主党をはじめとする野党との間で挙国一致内閣が樹立された。しかし、徐々に力をつけてきた民主党が挙国一致内閣から離反したため、1992年春に再度選挙が実施され、民主党が議席の7割近くを獲得、サリ・ベリシャSali Berisha(1944― )を大統領とする民主党政権が誕生し、長年続いた共産主義政権は終焉(しゅうえん)した。

[齋藤 厚]

政治

1990年末の複数政党制導入以来、労働党による一党独裁は排除され、直接選挙に基づく議会制民主主義体制をとっている。立法機関は人民議会で一院制、議員は140名、任期は4年である。また、閣僚評議会が内閣に相当する最高行政機関で、評議会議長が首相、副議長が副首相に相当する。大統領は国家元首、軍最高司令官、共和国国防評議会議長であり、人民議会により選出され、任期は5年である。1996年に実施された人民議会選挙では、社会党などの野党がボイコットするなかで民主党が大勝したが、1997年春にねずみ講問題を発端として国が無秩序状態に陥るなかで、大統領ベリシャは人民議会による自らの再選を強行する一方、メクシAlexander Meksi(1939― )民主党内閣は退陣し社会党のフィノBashkim Fino(1962―2021)を首班とする暫定挙国一致内閣が樹立された。そして、1997年6月、フィノ暫定内閣の下で人民議会選挙が実施されて社会党が大勝し、社会党を中心とする連立政権が発足するとともに、ベリシャの大統領辞任を受けて、7月には後任に社会党出身のレジェップ・メイダニRexhep Meidani(1944― )が選出された。1998年新憲法制定。2000年10月の地方選挙、2001年6、7月の総選挙は社会党が勝利。2002年6月、メイダニの任期満了に伴い行われた大統領選挙では、アルフレッド・モイシウAlfred Moisiu(1929― )が選出され、7月に大統領に就任、社会党党首ナノFatos Nano(1952― )が首相となった。2005年7月の議会選挙では野党民主党が躍進し、民主党党首ベリシャが首相に就任、民主党中心の連立政権となり、社会党からの政権交代が行われた。2007年7月、任期が終了したモイシウの後任として、民主党副党首のバミル・トピBamir Topi(1957― )が大統領に選出された。

 対外政策では、共産主義政権時代の孤立化政策を大幅に転換し、欧米諸国や国連、世銀などの国際機関との関係強化に努力している。とくに、自国がヨーロッパに位置することを強調しつつEU(ヨーロッパ連合)に積極的に接近しており、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)へは2009年4月に加盟、EUへも早期加盟の実現を目ざしている。近隣諸国との関係では、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア共和国、ギリシアなどに居住するアルバニア人少数民族の自治または人権問題に注視しており、とくに、独立前のコソボのアルバニア人問題をめぐり、セルビアと対立した状態が続いた経緯がある。なお、1992年にイスラム諸国会議機構に加盟しており、イスラム諸国との関係も強化している。1995年に欧州評議会に参加。2000年にWTO(世界貿易機関)加盟。

 国防では、軍が1992年以降アメリカなどから援助を受け近代化を進めていたが、1997年の騒動の際に武装市民勢力に重火器や艦艇などを多数奪われており崩壊状態にある。軍の2002年時点での兵力は、陸軍2万、海軍2500(戦闘艦艇24隻など)、空軍4500である。

[齋藤 厚]

経済・産業

アルバニアは、第二次世界大戦後、共産主義政権の下で、共産圏諸国の支援に頼りつつ工業化、農業近代化を目ざした計画経済体制をとっていた。戦後の工業化の進展は急速で、戦前はわずかであった鉱工業生産は、1960年に農業生産を上回り、1981年には工農生産比がほぼ7対3になった。しかし、1961年の対ソ連断交、そして1978年の中国との関係悪化を経て自力更正政策を導入すると、経済活動は停滞した。アルバニアは、1991年より市場経済への移行を開始したが、設備の老朽化、労働モラルの低下などが原因となって、鉱工業生産は劇的に減少した。とくに、重工業部門の不振が深刻で、多くの国営企業は未稼働状態にある。かつて世界第3位の生産・輸出量を誇っていたクロムも、2002年には第9位、世界の生産量の0.5%に落ちている。一方、食品、繊維などの軽工業部門や農業、観光、公共投資は活性化しつつある。主要産業は、農業、機械工業、鉱業、製造業。2004年のGDP(国民総生産)は76億ドル、1人当りGDPは2381ドル、貿易総額26億2000万ドル、輸出総額5億5000万ドル、輸入総額20億7000万ドル。主要輸出品目は繊維、建築資材、食料品など、主要輸入品目は機械、食料品、繊維など。通貨はレクLek。

 農業は、社会主義時代に集団化が行われたものの、大規模化、機械化にまでは発展しなかった。1991年、市場経済の導入にあわせて実施された農地私有化が成功し、生産活動が活発化している。なお、農民は、収益率の高い果実類などを好んで栽培する傾向がある。

 輸出はクロムや銅などの非鉄金属や靴や繊維製品などの軽工業品が、また、輸入は耐久消費財や中古車などの工業製品が中心で、主要貿易相手国はイタリア、ギリシアなどのヨーロッパ諸国である。輸入が輸出を大幅に超過して貿易赤字が膨らんでおり、国民の経済生活は、海外で働く移民からの仕送りや、諸外国・国際機関からの援助に大きく依存するかっこうになっている。

 商業は、1991年に私有が許可されて以降急速に発展し、個人経営の商店や貿易会社が多数設立されている。

[齋藤 厚]

社会

人口の95%以上がアルバニア人であるが、北部のゲグ人と南部のトスク人との間には、言語、風習に地方差がある。公用語はアルバニア語。ただし標準語にはトスク方言が採用されている。少数民族としてはギリシア人(2.4%)、マケドニア人、モンテネグロ人(あわせて0.9%)などがいる。また、セルビア、コソボ、モンテネグロ、北マケドニア共和国の領内に約200万のアルバニア人が居住しているほか、イタリアとギリシアにそれぞれ20万人前後のアルバニア人移民労働者がいる。

 人口増加率は、1980年代の2%強から1990年代前半には人口の国外流出によって1%に低下したが、依然、ヨーロッパ諸国のなかでも高水準である。アルバニアは、ヨーロッパの最貧国群から脱することができず、首都チラナには職を求める農村人口が大量に流入し続けており、また、市場経済導入以降、貧富の差が急速に拡大しつつある。

 宗教は、第二次世界大戦前はイスラム教徒が7割で、ギリシア正教徒が2割、カトリック教徒が1割であったが、2001年の時点での割合はイスラム教徒が39%、ローマ・カトリックが17%、アルバニア正教徒が10%、残りはその他の宗教あるいは不明となっている。共産主義政権時代に禁止であった宗教は1990年に解禁された。

[齋藤 厚]

文化

長くトルコの支配下にあって、民族意識の形成とこれに基づく文化的発展が遅れたことは否めない。アルバニア語で授業する学校は、1887年にようやく1校のみ設立が認められるという状態であった。このような条件のなかで、19世紀に主として国外で「アルバニア・ルネサンス」運動がおこったが、なかでも叙事詩『スカンデルベグ物語』のナイム・フラシャリが光る。第二次世界大戦後は、共産主義政権が芸術分野を厳しい統制下に置き、社会主義リアリズム路線を強力に推進した。そうしたなかにあって、イスマイル・カダレIsmail Kadare(1936― )が独創的な詩や小説を次々に発表し、世界的名声を獲得している。

 ほかの地中海諸民族に比べて物静かで忍耐強いとされるが、家父長制的メンタリティも残り、女性の地位向上運動が続けられている。市民の楽しみは映画、テレビ、それに夕方の散歩である。スポーツはサッカーの人気が圧倒的である。

[齋藤 厚]

日本との関係

日本とは1922年(大正11)外交関係が結ばれたが、1939年(昭和14)イタリア併合により断絶、第二次世界大戦後、1981年に再開された。人的交流も貿易額も現時点ではわずかであるが、一方で、日本はアルバニアにとり主要援助供与国の一つとなっている。2008年(平成20)2月、ベリシャ首相が来日。2004年の両国間貿易総額は206万ドル。日本からの輸入総額は147万ドルで、主要輸入品目は機械、自動車など。アルバニアから日本への輸出総額は59万ドルで、主要輸出品目は繊維製品、薬草など。

[齋藤 厚]

『木内信藏著「アルバニア」(「世界地理8 ヨーロッパⅢ」所収・1975・朝倉書店)』『木戸蓊著「世界現代史24 バルカン現代史」(1977・山川出版社)』『矢田俊隆編「世界各国史13 東欧史」(1977・山川出版社)』『中津孝司著「アルバニア現代史」(1991・晃洋書房)』『伊東孝之他監修「東欧を知る辞典」(1993・平凡社)』『Stefanaq Pollo and Arben PutoThe History of Albania(1981・Routledge & Kegan Paul)』『Raymond E.Zickel and Walter R.IwaskiwAlbania, a country study (1994.Federal Research Division,Library of Congress)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルバニア」の意味・わかりやすい解説

アルバニア
Albania

正式名称 アルバニア共和国 Republika e Shqipërisë。
面積 2万8703km2
人口 282万2000(2021推計)。
首都 ティラナ

ヨーロッパ南東部,バルカン半島の西部にある国。西はアドリア海に臨み,北はモンテネグロコソボ,東は北マケドニア,南はギリシアと接する。国土は西部の海岸低地帯,中部の高原地帯,東部の山岳地帯の,いずれも南北に細長い三つの地帯に大別される。気候は一般に冬は温暖で夏は暑いが,山岳地帯には内陸性気候の影響がみられる。住民はイリュリア人の系統をひくアルバニア人,公用語はインド=ヨーロッパ語族に属するアルバニア語で,北部のゲグ方言と南部のトスク方言があるが,現在のアルバニア語はトスク方言が共通語となっている。初めバルカン半島北西部はイリュリア人の土地であったが,前2世紀にローマ帝国の領土となり,以後,ビザンチン帝国オスマン帝国および周辺諸国などの支配と侵略を受けた。1912年ヨーロッパ列強の支持により独立。第1次世界大戦中は一時イタリアの勢力下に入ったが,1921年共和国。1928年から王制をしいたが,1939年イタリアに武力統合された。第2次世界大戦後,解放されて社会主義国となり,1950年代はスターリン主義に基づく政府を保持。1961年からはソビエト連邦との関係が悪化,以後,中国寄りの政治路線を歩んだが,1977年からはその路線からも離れ,事実上の鎖国政策を維持した。1988年から各国との関係を修復。解放以来一党支配を続けてきたアルバニア労働党(現アルバニア社会党)は,1990年複数政党制導入を発表し,1991年国名をアルバニア人民社会主義共和国から現国名に変更したが,1992年の総選挙でアルバニア民主党に敗れ,社会主義体制が崩壊した。農牧国で,トウモロコシ,コムギ,ジャガイモ,ワタ,タバコ,サトウダイコンなどを栽培。クロム鉱,銅鉱,リン鉱,石油,天然ガスなど鉱産資源に恵まれているが,開発は遅れている。中央計画経済のもとで工業化に力を注いできたが,原材料不足で低迷。1990年以降,経済改革により農地の個人所有,工場の民営化が進められた。オリーブ油などの農産加工,衣料,石油精製,セメントなどの工業がある。(→アルバニア史

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