ウー・オッタマ
U Ottama
生没年:1880-1939
ビルマ(現,ミャンマー)の僧侶。イギリス官憲に弾圧されながらも,植民地解放を訴え続けた殉難者。アラカン地方シットゥエの出身。16歳で得度し,インドに遊学,帰国後具足戒を受けて比丘となる。その後,インド,エジプト,フランス,日本等を歴訪し,1918年帰国。インド滞在中国民会議派の運動に触発され,帰国後ビルマ団体総評議会の政治運動を支援した。21年政府誹謗罪で逮捕,24年再逮捕された。27年出獄後,インド国民会議派のマドラス大会に出席。帰国後下ビルマ各地を巡錫しながら,納税拒否運動を指導した。28年3度目の逮捕投獄を経験した。39年9月ラングーン市内で行倒れとなって死去。その過激な言動は宗門界から異端視されたが,強烈な反権力意識と反英行動とは,ビルマの民族主義運動に強い影響力を与えた。1907年と12年の2回来日,14年に日本紹介の著書《日本国事情》をラングーンで出版している。
執筆者:大野 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ウー・オッタマ
うーおったま
U Ottama
(1879―1939)
ビルマ(現ミャンマー)の僧侶(そうりょ)。政治運動の指導者。本名はポートウンアウン。アラカン州アキャブ町の出身。過激な言動は宗門界から異端視されたが、植民地時代におけるビルマの民族運動に強い影響を与えた。16歳で得度、19歳で具足戒を受けた。出家のままインド、エジプト、フランス、日本、中国、安南(現ベトナム)などを歴訪して1918年に帰国。インド滞在中に国民会議派の運動に触発され、帰国後は反植民地講演を各地で行い、民衆の政治意識を啓蒙(けいもう)した。1922年に政府誹謗(ひぼう)罪で逮捕投獄され10か月間服役し、1923年にも再逮捕されて3年の刑に服した。その後納税拒否運動を指導して1928年に三度目の投獄にあった。1939年9月、ラングーン(現ヤンゴン)市内で行き倒れとなり死去。著書に『日本国事情』がある。
[大野 徹]
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ウー・オッタマ
U Ottama
1879 - 1939.9
ビルマの僧侶。
アラカン地方シットゥエ出身。
16才で得度し、インドに遊学し、帰国後具足戒を受けて比丘となる。1918年よりビルマ団体総評議会の政治運動を支援し、逮捕され、’27年に出獄後、ビルマ各地を巡錫して、納税拒否運動を指導した。その過激な言動は宗門界から異端視されたが、反権力意識と反英行動はビルマ民族主義運動に強い影響力を与えた。2度来日しており、’14年には「日本国事情」を出版している。’39年にラングーン市内で行き倒れとなって死去した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
ウー・オッタマ
U Ottama
[生]1878
[没]1939
ビルマ (現ミャンマー) の民族主義運動創始者の一人。 1914年にビルマ仏教青年会 YMBA結成に参加し,日本に長期間滞在した体験記『ジャパン』 (1915) を出版して,ビルマ青年に大きな影響を与えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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「ウーオッタマ」の意味・わかりやすい解説
ウー・オッタマ
ミャンマーの僧侶。16歳で得度。1921年,1924年,1928年と3度逮捕されながらも,終始英国からの独立と反権力を民衆に訴えつづけた。1907年と1912年に来日,日本を紹介した《日本国事情》の著書もある。
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