日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
エマーソン・レーク&パーマー
えまーそんれーくあんどぱーまー
Emerson, Lake & Palmer
イギリスのロック・グループ。1970年代のプログレッシブ・ロックにおける人気バンド。エマーソン・レーク&パーマー(以下ELP)は、教会音楽や現代音楽を含むクラシック音楽とロック・ミュージックの融合を意識的に推進した。バルトーク、ムソルグスキー、チャイコフスキーやプロコフィエフ、コープランド、アルゼンチンの現代音楽家アルベルト・ヒナステラAlberto Ginastera(1916―1983)、イギリスのヒューバート・パリーHubert Parry(1848―1918)、そしてバッハ等々、彼らは古今のクラシック音楽を独自の解釈でアレンジし、ダイナミックなロック・サウンドへと仕立て上げた。クラシック音楽の導入・融合は、1970年代プログレッシブ・ロックにおける重要なモチーフやテーマや手法の一つのであったが、ELPの場合は、そこで完結してしまった感があり、それゆえに音楽そのものの奥行きが限られ、また時代の変化に伴う風化への抗力も弱かった。彼らの作品が、1970年代の全盛期と比べ、後年はあまり評価されていないのもそのあたりに原因がある。
モッズ(1960年代ロンドンで若者に流行したファッション・音楽スタイル。名前はモダンズ(moderns)からきている)からサイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロックへの移行を体現したナイス(当初は黒人女性シンガーP・P・アーノルドP. P. Arnold(1946― )のバック・バンドとして結成された)のキーボード奏者キース・エマーソンKeith Emerson(1944―2016)と、キング・クリムゾンのベーシストとしてデビュー・アルバムを発表したばかりのグレッグ・レークGreg Lake(1948―2016)の出会いを発端に、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンやアトミック・ルースターで活躍してきた若きドラマー、カール・パーマーCarl Palmer(1950― )が加わって1970年ELPはスタートした。アイランド・レーベルと契約を結び、同年デビュー・アルバム『エマーソン、レイク&パーマー』を発表。キーボードを軸に、クラシックやジャズの要素を取り入れた奔放なサウンド・プロダクションは、エマーソンがすでにナイスでやっていたことの延長線上にあった。翌1971年にリリースされた2作目『タルカス』では、新たに導入したモーグ・シンセサイザーを縦横に使いこなし、バンド・アンサンブルがタイトでアグレッシブなものとなる。そして同年発表した3作目『展覧会の絵』は、ムソルグスキーのピアノ組曲『展覧会の絵』をカバーしたライブ盤だが、その世界的成功によって、彼らは押しも押されもせぬトップ・バンドとしての地位を確立する。続く1972年の『トリロジー』、1973年の『恐怖の頭脳改革』、そして1974年の3枚組ライブ・アルバム『レディース&ジェントルメン』あたりまでが、ELPの人気と創造性の両面での頂点であった。また、キーボードに馬乗りになったり、鍵盤にナイフを突き立てたりといったエマーソンの過激なライブ・パフォーマンスも評判を呼んだ。1973年には、バンドとして自らマンティコア・レーベルを設立し、1977年の閉鎖までキング・クリムゾンのピート・シンフィールドPete Sinfield(1946― )のソロ・アルバムやイタリアのプログレッシブ・ロック・バンド、PFMの世界デビュー作などを制作、リリースした。
1977年にはメンバーのソロ・ワーク集的な『ワークス Volume1』『ワークス Volume2』がリリースされたが、そこには『恐怖の頭脳改革』までもっていたテンションの高さや勢いはなかった。そして翌1978年の『ラヴ・ビーチ』は、プログレッシブ・ロックが衰退する時代の趨勢に歩調をあわせたような、シンプルでポップな作りに挑戦したが、作品全体の焦点が定まらず、バンドはそのまま1979年に解散した。
1980年代以降は、パーマーはイエスのスティーブ・ハウSteve Howe(1947― )らとエイジアを結成してヒットを飛ばし、エマーソンは映画音楽制作などで活躍、レークもギタリストのゲーリー・ムーアGary Moore(1952― )とのコラボレーション・アルバムなどを発表した。1985年には、パーマーの代わりにハード・ロック界の人気ドラマー、コージー・パウエルCozy Powell(1947―1998)を迎えて、エマーソン・レーク&パウエルを結成、翌1986年にアルバム『エマーソン、レイク&パウエル』を発表するが不発に終わる。そして1991年オリジナル・メンバーによってELPは再結成され、『ブラック・ムーン』(1992)や『イン・ザ・ホット・シート』(1994)などのアルバムを発表、ライブ・ツアーも盛んに行ったが、1999年ごろから再び活動を停止した。
[松山晋也]