オクチャブリスト
oktyabristy
帝政ロシア末期の有産階級の政党。〈十月党〉と訳すが,正しくは〈10月17日同盟〉。自由主義的地主・資本家の穏健分子を中心に,1905年10月17日発布の〈国家秩序改善についての皇帝宣言(十月宣言)〉に沿った線での立憲君主制の確立を目ざして,同年11月に結成された。翌年に開設された国会では,初め振るわなかったが,07年6月3日の選挙法改訂の結果,同年に行われた第3国会の選挙で148議席を占めて第1党となり,ツァーリ政府の有力与党の役割を演じ,自派から議長を出した(N.A. ホミャコーフ,A.I. グチコフ,M.V. ロジャンコ)。12年以後の第4国会でも引き続き議長を出した(ロジャンコ)が,議席は減退した。第1次大戦中は〈信頼内閣〉を要求して他の有産諸政党とともに〈進歩ブロック〉をつくった。また二月革命後は臨時政府に閣僚をおくり(グチコフ陸海軍相),カデットとともに革命の阻止につとめたが失敗に帰した。十月革命後,亡命した者が多い。
執筆者:原 暉之
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「オクチャブリスト」の意味・わかりやすい解説
オクチャブリスト
十月党とも。帝政ロシア末期の立憲君主主義政党。1905年の第1次ロシア革命の直後,自由主義的政策を公約した十月詔書を支持する大商工ブルジョア,地主層が,リャプシンスキー,ロジャンスキー,グチコフを中心に組織。国会(ドゥーマ)では右翼政党と結んで多数を占め,1917年の二月革命後はカデットとともに反革命活動を続けた。
→関連項目ゼムストボ
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世界大百科事典(旧版)内のオクチャブリストの言及
【ゼムストボ】より
…そうした背景のなかで,70年代末以降,ゼムストボは憲法と議会を要求する急進的な自由主義運動の拠点となり,それに対して政府側も,90年6月の法令(〈反改革〉と呼ばれる)によって,ゼムストボの活動に対する制限を強めた。ゼムストボの自由主義運動は,革命的運動とは敵対的であり,〈反革命的〉性格は,ゼムストボ指導者が参加して誕生した立憲民主党(カデット)や十月党(オクチャブリスト)の活動,および第1次世界大戦中に結成された全ロシア・ゼムストボ同盟の活動にあらわれている。【鈴木 健夫】。…
【ドゥーマ】より
…明治初年に身分制が廃止され,農地の私的所有権が確立された日本とは異なり,ロシアでは農村共同体(ミール)を解体し,小分割地農民を創出することが1907年に始まる[ストルイピン]の改革の課題であり,ロシア社会のブルジョア的改革の第一歩であった。 ツァーリズムは第2国会をも解散し,選挙法をさらに改悪し,第3国会と第4国会の選挙を挙行するが,その結果,カデットより右派の[オクチャブリスト]が中心勢力になり,国会議長もこの党から出た。第3国会ではオクチャブリストをはじめ右派の諸党派が共同体解体法(1906年11月9日の勅令)を支持した。…
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