一般的には議会と呼ばれる国の機関のことで,この言葉自体は明治期にも用いられた(〈国会開設〉請願運動等)が,日本国憲法(1946公布。以下原則として憲法と略す)によって議会を指す公的名称となった。憲法前文は〈日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動〉すると記し,さらに国政の権威は国民に由来し,国の権力は国会が行使し,その福利は国民が享受すると定め,国民に国政を決定する最高の権力があるというたてまえ(国民主権)を実質的に生かす主要なルートとして国会は位置づけられている。国会が国権の最高機関とされ,立法機関たることが〈唯一の〉と強調され(41条),国民の代表機関であることが憲法に掲げられている(43条参照)のも,上記の事がらと結びついているのである。このような国会の位置づけは,近代市民革命を契機とする議会制,すなわち,全国民を代表し,特定の者や団体の命令に拘束されない議員で構成される近代議会制に由来するものである。身分および団体の利益を代表した中世等族議会と異なり,近代議会は国民の意思を直接反映する国家機関であり,すべての国政の基準となる法律の制定権を掌握することにより,議会自身を含め,政府,裁判所のような他の国家機関の行動基準を定めるという意味で,三権の国家機関の中で優位に立つこととなった。
これが近代議会の統治機構における定位であったが,選挙権拡大に伴う政党制の発達により,議会制度は今日,この定位と乖離した状況をきわだたせている。現代の議会における諸政党は,国民のすべての利害を適正に代表しているとは必ずしもいえず,また,多様な圧力団体が議会の意思決定を左右している。また,国家の職能の範囲の著しい拡大と深化が官僚制を堅固にし,ために,議会による行政統制は形骸化している。要するに,議会は今日,社会の諸利益の調停者としての役割を十分には果たしえず,選挙は,目先の利益に執心する選挙民による,政権党の選択という行事になりがちである。
→議会 →議会政治 →国民代表
明治の支配層が,自由民権運動の高揚の徴表となった国会開設請願運動に抑圧的に対応し,1881年に天皇勅諭をもって国民に約束した国会開設(1890)のねらいは,下からの民権論と選挙で民意を吸収した政党による政治を抑えこむことにあった。このねらいは明治憲法により機構的に保障されることとなった。大日本帝国憲法における議会(帝国議会)の位置は天皇主権(1条)で枠づけられ,西欧近代議会のように,国民の意思が国政を決定するための手段としての機関ではなく,天皇の統治機関として定められた。立法権は天皇にあり,〈法律〉という重要な国法形式について,議会は天皇の必要的諮問機関のようなものであった。〈法律〉以外の立法は議会の関与するところではなかった。軍事および条約は天皇の権限であり(大日本帝国憲法11~13条),さらに天皇は,緊急勅令(8条),および独立命令(9条)を制定する権限を有し,非常時には,議会の権限を行使することができた。議会の行政統制権はきわめて不十分であり,西欧の近代議会の権限として重要な国家予算に対するコントロールについて,明治憲法は,議会が政府の予算案を支持しない場合,前年度予算施行制度(71条)を定め,政府にフリーハンドを認めていた。また政府大臣はその行為について責任を負うのは天皇に対してであって議会に対してではなかった(55条)。議会の構成にも民主主義の価値基準からみて問題があった。上流社会を代表する非公選議員から成る貴族院が,衆議院と対等の権限を有し,衆議院をとおして民意が立法に反映するルートを抑制した。また衆議院についても,議員の選挙権は,長い間,多額納税者にのみ与えられ(1925年公布の普通選挙法で普通選挙制が実現),また,女性には一貫して選挙権が認められなかったため,当初,有権者数は人口比で1%,後も20%にとどまった。
第2次大戦での敗北によって天皇統治の権力基盤が破壊され,日本国憲法の定める国会制度で,日本の議会制は,西欧近代議会制の条件を備えると同時に,現代議会制の特徴をも,戦前からの政府優位の体質という日本的特殊条件のもとで併せもち,民主政治の代表機関性を必ずしも十分発揮しえず今日に至っている。
次に,統治機構における国会の位置づけを明らかにしておこう。日本国憲法41条は,〈国会は,国権の最高機関であつて,国の唯一の立法機関である〉と定めている。と同時に,内閣に行政権を,裁判所に司法権を認め(65,76条)ているところから,国会の最高機関性の意味,いいかえれば,憲法機構における国会の位置づけについて,考え方が分かれている。これまでは,〈国権の最高機関〉という言葉はとくに最高機関たる実質を備える権限を国会がもつという意味ではなく,憲法の定める政治組織は,権力分立による国会,内閣,裁判所という三権の相互抑制・均衡を基礎とするものであり,国会は選挙を通じて主権を有する国民にもっとも近い国家機関だから,最高機関という美称を与えられているのだ,とする考え方が支配的であった。しかし最近では,憲法における国会,内閣,裁判所の権限とこれら三権の相互関係をふまえ,国会は三権の間の総合調整作用を営み,国政の決定で指導的な統合的な地位を占めるという見解が有力になってきている。その見解によれば国家機関が並列関係にあって相互の抑制・均衡をたてまえとする,伝統的三権分立主義のみかたは,国会の〈国権の最高機関〉性を軽視しがちとなる。権力分立主義は,国民主権の原理の下では,国民に基礎を置く機能的分立にすぎないものであるから,国民主権理念の直接的反映である国会の最高機関性は,権力分立原則に対して優位的に考えられるべきこととなる。すなわち,憲法の明文規定に反しないかぎり,国会優位の権限関係を他の国家機関との間に見いだすことが,41条前段に適合する解釈となる。たとえば,内閣による衆議院の解散は,衆議院の内閣不信任の場合(69条)に限定すべきこととなり,裁判所による法律の合憲性審査権(違憲立法審査制度)も,司法作用の枠内にとどめられるべきこととなる。そして,この審査権も,人権保障を主眼とする憲法保障を目的として制度化されたものである点を考慮すれば,国民を国会に優位させる限りでのみ,内閣と裁判所は国会に向けて抑制作用を営みうるにとどまることとなる(これらの抑制作用は,内閣および裁判所の固有の自己防衛を目的とした権限に基づくわけではない)。憲法の採る三権分立主義は,上記の意味で,国会の統括機関性を前提にしたものと思われる。
次に,国会が唯一の立法機関であるといっても,立法一般を国会が排他的に行うことを必ずしも意味しない。例外として,憲法改正(96条)と一つの地方公共団体のみに適用される特別法(95条)をあげることができる。これは国会で左右できない立法である。さらに,国会の意思の枠内の立法でも,国会が関与しない例として,委任立法(73条6号参照),最高裁判所規則(77条),議院規則(58条2項),地方公共団体の条例(94条)があげられる。また法律についても,立法手続全体(発案から公布まで)を国会がとりしきるわけではない。法律案は内閣も提出できると解するのが支配的学説であり,慣行もそうなっており,ほとんどの法律が内閣から提出された法案をもととしている。
国会は衆議院と参議院から成り(二院制),いずれも国民の直接選挙による議員から構成される(衆議院比例代表選出区--1994年の公職選挙法改正により導入--,および参議院比例代表区--1982年の公職選挙法改正で導入--は,それぞれに議員候補者名簿を作成する政党,政治団体が投票の対象となっている)。前記の1994年公職選挙法の改正により,衆議院議員の定数は500人で,うち小選挙区(1区1人選出)選出が300人,比例代表区選出が200人となっている。また,参議院議員の定数は252人で,うち152人が都道府県別の選挙区で,100人が比例代表制で,それぞれ半数ずつ3年ごとに選ばれる(以上,数字は1997年11月現在)。議員の任期は衆議院議員が4年,参議院議員が6年であり,衆議院には解散があるから,そのときは4年未満で議員の任期は終了となる。衆議院と参議院は,参議院の緊急集会の場合を除き,召集(内閣の助言と承認によって天皇が行う),開会,閉会は同時であり,各院とも他院から独立して議事を行い,議決を行う。とはいえ両院の意思に齟齬(そご)が生じないよう両院協議会(憲法59~61条,67条)の制度が設けられているが,今日ではほとんど活用されていない。
衆議院と参議院とは,権限が対等でなく,衆議院が優越している。憲法で衆議院の議決を優位させているのは,法律案の議決(59条),予算の議決(60条),条約の承認(61条),内閣総理大臣の指名(67条)であるが,これは,参議院に衆議院の行過ぎを阻止するのではなく,再考を促す機能を期待しているからであり,究極的には,国民本位の慎重な国会の意思決定を保障することにねらいがある。
議院の審議は委員会中心に行われる(議会委員会制)。明治憲法下の帝国議会では本会議における審議(読会)が中心であったが,戦後,アメリカ議会の委員会中心主義が採用され,衆議院に20の,参議院に17の常任委員会が設置されている(国会法41条2項)。委員会には特定の問題を審査する特別委員会もある。各議院には議員の中から選任される議長,副議長,常任委員長の職があり,事務総長と参事その他の職員が置かれ議院事務局が構成されている。さらに議院の自主立法作業に資するため議院法制局があり,議員の調査活動を充実させるため常任委員会調査室,国立国会図書館が設置されている。
国会は常設の機関ではない。議員の任期満了または衆議院の解散までの期間(立法期または議会期と呼ばれる)に一定の区切りをし,その間だけ活動することとしている。この区切りの活動期間を会期といい,議院の意思は会期ごとに独立とされ,会期が異なればその意思は継続しない(会期不継続の原則)。これは審議の能率性を高めるためである。会期の開始と終了には,国会が自主的に定める場合と,内閣が決める場合とがあり,会期の延長は国会の自主的判断による(会期の種類についてはコラム〈国会に関する用語〉参照)。各議院における議案の審議は委員会が本舞台となる。審議においては公聴会が開かれ,利害関係者または学識経験者の意見を聴くこともある。政府法案の審議においては,大臣および〈政府委員〉という官庁幹部職員が出席して議員(おもに野党)の質疑に答え,政府ペースで審議が行われるのが例である。アメリカの議会では,大統領には法案提出権がないので,こうした政府委員制度はない。これにならい,国会の審議が,国会本位で行われるようにするため,政府委員制度は廃止すべきだとの意見もある。国会の意思決定は,両院の意思の合致を原則とし,各議院の意思は多数決によって決められる。しかし,両議院は総議員(定数)の3分の1以上の出席がなければ会議を行ったり議決できない(憲法56条1項)。また,憲法改正の発議(96条),議員の資格を争う裁判(55条),秘密会を開くことの決定(57条1項),議員の除名(58条),法律案における衆議院の再議決(59条2項)の場合,出席議員の(96条の場合は総議員の)3分の2以上の多数による議決が必要であるが,これら以外の議決は,出席議員の過半数によるのであり,可否同数のときは議長が決める(56条2項)。議院の議事は公開ですすめられるのが原則であり(57条),委員会は議員のほか傍聴を認めないたてまえとなっている(国会法52条1項)が,実際の扱いとしては報道関係者に公開されている。議事の公開は,報道の自由および会議録の公表を含むものと解せられている(憲法57条2,3項参照)。
国会の主要な権限は次のとおりである。第1に立法権である。すなわち,国法形式では憲法の下で中枢の座を占める〈法律〉の制定権を有する。法律案は原則として両議院で可決したとき法律として成立する。その前提として各議院とも提案(議員による場合を発案,政府による場合と議院委員会による場合(国会法50条の2)を提出と呼ぶ),審議(委員会と本会議)の段階がある。両議院の立法意思が一致しない場合の調整は憲法59条の定めるところである。成立後は,当該法律事項について主任の国務大臣が署名し,内閣総理大臣が連署する手続(74条)が必要であり,ついで天皇による公布(官報掲載)で立法過程は終了する。第2に内閣の締結する条約に対する承認権である。国会の条約修正を内閣が認めないとき,または相手国が承認しないときは,条約は不承認となり,条約としての効力を発生しない。第3に,国の財政処理権は国会の議決に基づいて行使されなければならない(83条)。租税の賦課・変更は法律に基づかなければならず(84条,租税法律主義),国費の支出,国の借金については,国会の議決が必要である。国の収入支出の決算は内閣から独立した会計検査院が検査する。そしてその報告書とともに,内閣による決算が国会に提出され審査される(90条)。第4に,内閣総理大臣の指名権である(67条)。内閣総理大臣は国会議員の中から,慣例としては衆議院議員で衆議院に最多議席数を占める政党の長たる者が,すべての案件に先だって指名される。国会のこの人事権は,議院内閣制の重要なファクターである。さらに,国会は,裁判官をその意に反して罷免しうる弾劾裁判所を設置する(弾劾)。
また,議院の重要な権限として,国政調査権があげられる(62条)。国会が立法権をはじめ一般国政に関する権限を効果的に行使しうるよう,憲法は,各議院に,証人の出頭と証言ならびに記録の提出を強制できる権限を伴う国政調査権を認めているが,司法権の独立,政府内の公的秘密,個人のプライバシー等とのかかわりで,その行使の限界が問題となる。内閣不信任決議権(69条)は衆議院のみが有する権限であり,この権限行使により,内閣による衆議院解散か内閣総辞職が法的効果として導かれる。議院内閣制にかかわる重要な権限である。
なお,各議院には,国会および議院の以上に述べた権限を有効に行使できるよう,内部事項について自律的権限が認められている。議院の自主組織権として,議長等の役員選任権と議員の懲罰権,さらに各議院の会議その他の手続および内部の規律に関する規則制定権(議院規則),議員の資格に関する争いを判断する裁判権等が例としてあげられる。
国会は主権を有する国民の代表機関として,統治機構の中枢に位置づけられて日本国憲法とともに発足した。アメリカの軍事的傘下で日本が独立した後,保守合同(1955)により,保守政党は国会に安定した多数派勢力を擁するに至った。この時期の前後に(1955年と58年),国会がその権限を有効に行使するための制度をみずから制約し(両院法規委員会,自由討議制の廃止),少数派議員の権利を限定する(議員の発議権の制約)国会法改定がなされた。国会に関する改憲構想のきわだった例は,国会万能を印象づける〈最高機関〉たる定め(41条)をやめること,参議院に非公選議員を加えること,国会に対する内閣の権限強化等をうたった〈憲法調査会報告書〉(1964)の有力見解にみられた。
1955年ごろから参議院の政党化が進み,有力会派であった緑風会が凋落したが(1965解散),71年7月参議院選挙の結果,野党の推す河野議長が誕生し,また,いわゆる〈保革伯仲〉は衆議院にも波及した。しかし,中道政党の政府協力と議長の柔軟な議事運営により,政府与党(自民党)は国会対策に妥協を強いられはしたが,国会運営に挫折をきたすことはなかった。保革伯仲国会は,80年の衆参議院同時選挙で終焉し,政府与党は安定した勢力に戻った。この選挙が契機となり,アメリカからの航空機輸入にからむ一大汚職事件(ロッキード事件)に対する国会の調査は中止となった。
国会は,国民が有する政治のあり方を決める最高の力(主権)を具体的に発揮する最も重要な国家機関である。国民の欲するところは,生命,生活の安全が第1であり,それへの手段はさまざまありえても,国会の活動の配慮はまずこれに向けられるべきである。国会活動ではこれまで,防衛,治安,教育,労働の諸問題を中心に,政府与党と野党は対決してきた。多くは条約を含め立法をめぐる対立で,昭和40年代前半までは,政府与党が議事手続の法的枠組みを越えて強行採決をする例(日韓条約・協定および関連法案,1965年。大学運営臨時措置法案,1969年)もみられ,強行採決のために警察力が導入されたこともあった。そして,既述のごとく,政府与党は,保革伯仲国会を議長の柔軟な運営で乗り切った。ときには減税措置で野党が結束して政府を予算修正に追い込むことはあっても(1976,77),日米軍事同盟をいっそう緊密にしたり,社会福祉に重点を置かない政治に歯止めをかけるという点などにおいては限界があった。1980年の衆参議院同時選挙による政府与党の大勝により,自民党はかなり優位な立場を回復し,そのペースでの政治が進行してきた。しかし83年10月のロッキード事件第一審判決が田中元首相を有罪としたことが契機となった衆議院解散による総選挙(1983年12月18日)の結果,政府与党は議席をかなり減じ,再度,保革伯仲の状況が生まれた。保革伯仲は,国民全般にとって,国会が国民の立場に立つ活動を行うための一つの条件と期待された。しかし野党は,政治倫理問題,防衛費問題等で政府与党に打撃を与えることができないまま,懸案となっていた衆議院議員の選挙区定数是正問題の暫定的措置を口実(是正前の違憲状態をなくす)とした,中曾根康弘内閣の衆議院解散による衆参院同日選挙(1986年7月)をみた。この選挙で自民党は圧勝し,日本社会党は,逆に,衆議院で議席を大きく失った。この自民党の勝利が,たちまち政界浄化の気運を風化に導いたことは疑問の余地がない。政界汚染はその後も着実に恒常化していく。1988年10月に周知となるリクルート疑惑と消費税導入問題が引き金となって,日本社会党は参議院選(1989年7月)で躍進し,結実しなかったものの,参議院に拠る野党の消費税廃止の努力も評価されてか,翌年の衆院選(1990年2月)では,他の野党は軒なみ議席を減らしたが,社会党は,有権者の政府批判の追風を受けて83から136の議席へと躍進した。しかし,中道政党の自民党寄りの現実的路線と,政界浄化ムードにのった与党自民党からの保守分派の動き(日本新党(1992年),新生党(1993年)とが相互作用して日本社会党は1993年7月の衆院選で大きく敗退する。議席は134から70へ)が,皮肉にもこれが契機となって保守政党と政権(細川護煕内閣)を担うことになり,ついには自民党と組んで与党となり,従来の立党の基本(自衛隊,安保条約違憲)を捨て,ついには分裂し,党名を社会民主党と変え没落の一途をたどっている。
ともあれ,長期政権の座にあった自民党が一時下野したこと(それは自民党からの離党議員が多かったことによる)は,離党グループと中道政党を結束させ,社会党がこれに加わったことで社会党内が割れ,長年自民党の念願であった小選挙区制本位の選挙制度の実現(1994年)をみたことは予想を超えるドラマではあった。とまれ,保守勢力は,自民党と新進党(新生党,日本新党,公明党,民社党等で1994年12月結成)に分かれていても,両者は国の内外の基本政策では一致しており,現在の小選挙区比例代表制は,いわゆる〈保・保連合〉の実質を保障しているといってよい。
1955年,保守合同による自民党と,左右統一による社会党が相対峙する体制(55年体制と呼ばれる)が成立し,国会二分の勢力分野が作り出された。それは,アメリカの民主党対共和党,あるいはイギリスの保守党対労働党(当時)のような二大政党による議会制民主政治を想定して生まれた。少なくとも二大政党制の実現が,当時の両党成立の大義名分であったことはまちがいない。しかし,それから四半世紀以上に及ぶ議会政治の現実は,終始議席の過半数を保持して政権の座を占め続ける自民党と,分裂し細分化した野党各党という図式を固定化し,議会政治をとる西側先進諸国間では珍しい一党支配の政治形態を現出することとなった。もっとも,こうした55年体制下の国会運営は,ほぼ5年ごとにその実態,様相を微妙に変化させながら推移してきたといえる。
(1)1955-60年(鳩山一郎-岸信介政権時代) 保守=自民党対革新=社会党は,重要案件をめぐってしばしば激突し,国会はイデオロギー的対決の場であった。鳩山内閣のもとの小選挙区制法案(廃案),新教育委員会法案(成立),教科書法案(廃案),岸内閣のもとの警察官職務執行法改正案(廃案),新日米安全保障条約(批准承認)などはその代表例である。国会包囲デモ,国会への警官隊導入,流血の事態すら繰り返された。(2)1960-65年(池田勇人-佐藤栄作政権時代) 60年安保闘争,岸内閣退陣のあとに登場した池田内閣は,岸の政治主義,対決主義から一転し,経済優先の政治,対話尊重の国会運営を推進した。社会・共産両党と激突の危険をはらんだ,自民・民社両党共同提案の政治的暴力行為防止法案を結局廃案としたのは,その好例である。ただし,池田の病気退陣のあとを引き継いだ佐藤内閣は,日韓基本条約ほか4協定の国会承認を強行した。この時期は,与野党間に緊張をはらみながらも,対等に話し合う国会審議のルールが定着したといえる。(3)1965-75年(佐藤栄作-田中角栄政権時代) 池田内閣4年4ヵ月に続く佐藤内閣7年8ヵ月の間に,自民一党支配は確立し,社会党の立遅れ,万年野党化は決定的となった。同時に,野党の多党化が進行した。自民党の圧倒的優位のもとで,国会運営の形骸化が進み,与野党国会関係者の癒着,なれあい現象が顕著になった。それが,与野党間の大きな争点とみられた大学運営臨時措置法案や沖縄返還協定が,自民党ペースで成立,承認を得た背景である。(4)1975-80年(三木武夫-福田赳夫-大平正芳政権時代) 参議院ではすでに71年から始まった与野党伯仲状況は,76年の衆議院のロッキード総選挙で決定的となった。田中以後の自民党内抗争がそれに拍車をかけ,国会運営はふたたび与野党間で緊迫した局面を生んだ。2回にわたる野党要求による予算案修正はその代表例であり,80年5月の大平内閣不信任案の可決というハプニングも,この状況で生まれた。(5)1980年以降(鈴木善幸-中曾根康弘政権時代) 80年衆参議院同時選挙の大勝によって,自民党支配はふたたび優位を取り戻した。しかし国会運営では,与野党伯仲時代の手法が継続され,とくに自民党と中道野党との接近がみられた。83年の総選挙で後退した自民党は,この傾向を進めて新自由クラブとの連立政権に踏み切った。さらに自民党と民社党との連携の動きもあり,55年体制の基本的枠組内の変化にとどまっていた国会運営は,ようやく大きな転機と変容に直面しているといえよう(その後86年の衆参ダブル選挙では自民党が圧勝したが,89年の参院選では自民党が惨敗し,初の与野党逆転となった)。
与野党間の政権交代の可能性がほとんど失われ,自民党の圧倒的優位下の国会運営が続く現状では,予算,法律,条約,決議など,国会のあらゆる意思決定の最大の要件は,自民党内の調整,意思統一である。その自民党では,〈派閥連合政党〉と呼ばれるように,重要な決定に派閥間のおもわくが先行するのは避けられない。そこで自民党は,主要機関である執行部(幹事長),総務会,政務調査会,国会対策委員会などのすべてに,現在(1984)の五大派閥を代表する副幹事長,副会長,副委員長を任命,参加させて,円満な調整を期している。重要な政策,とくに予算および予算関係法案の具体的作成にあたるのは,政務調査会各部会であり,それが国会に提出されたあとは,国会対策委員会が責任をもって野党国対委と交渉に当たり,国会の議院運営委員会を舞台に重要案件の成否を争うことになる。
自民党政務調査会各部会は,おおむね政府の各行政官庁に対応する形で設けられ,それはまた国会の各常任委員会(および特別委員会)に照応する形ともなっている。各部会に所属する議員は,それぞれの地元利益を代表し,また関係圧力団体の要求を代弁して,法案や予算案作りに参画する。また関係各官庁も,それぞれ関係各部会と密接な連絡をとり,最大限にその主張,要求を認めてもらうよう努める。もちろん各官庁は,国会での円満成立のために,各野党に対する事前の説明や工作も怠らないが,それよりも自民党内の意思決定が,国会での案件成立の最大のかぎだとして,与党工作に全力をあげるのである。
自民党の政務調査会-総務会承認を得た案件は,ほとんど政府提案の形で国会に提出されるが,それ以後の取扱いは,各党国会対策委員会-国会の議院運営委員会にゆだねられる。とくに重要案件については,関係常任委員会に付託,審議するに先だち,本会議で案件の趣旨説明を求め質問することになっており,その案件の取捨選択と優先順位が,議院運営委員会の攻防の焦点となる。野党は,なるべく多数の案件の本会議上程を要求し,またその上程日を引き延ばすことによって案件成立の阻止をねらい,政府与党はそれに対抗して,案件の早期,多数成立を図ろうとする。議院運営委員会の応酬を表舞台に,各党国会対策委員会間の折衝を舞台裏とする国会の攻防が展開する。こうしたかけひきは,各常任委員会の審議を終わったあとの,本会議上程-採決-成否決定の場合も同じである。重要案件については,最終的には与野党国会対策委員長,さらには幹事長・書記長の会談を開いて決着を図ることとなる。
→国会議員
執筆者:内田 健三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
衆議院および参議院で構成される二院制の議会をいう(憲法42条)。国会という名称は、1880年(明治13)国会期成同盟が成立して以来広く用いられていた。1889年明治憲法(大日本帝国憲法)が制定されて、帝国議会といわれるようになったが、第二次世界大戦後の占領下の1947年(昭和22)日本国憲法が施行されて、国会と改称された。同年5月20日第1回国会が開かれた。
[池田政章]
国会は主権を有する国民を代表しその意思を実現する国家機関であり、憲法は「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」(41条)と定めている。国権の最高機関とは、主権者である国民を直接に代表し、その意思を実現する地位を占めるという意味において政治的に最高であるということであり、唯一の立法機関とは、国会による立法以外の立法は原則として許されず、かつ国会の立法権は完結的なもので、他の機関の参与を必要としないことを意味する。ただし、憲法は例外として、議院規則の制定権を国会各議院に(58条2項)、最高裁判所規則の制定権を最高裁判所に(77条)認めている。
[池田政章]
明治憲法では、貴族院と衆議院で構成されていた。日本国憲法が制定されるとき、GHQ(連合国最高司令部)から提示された案は一院制であったが、日本政府の主張により両院制(二院制)を採用、参議院と衆議院で構成されることになった。
両院のおもな組織上の違いは、(1)議員定数が異なる、(2)議員任期が異なる、(3)被選挙年齢が異なる、(4)選挙区が異なる、などであり、組織上ではそれほど根本的な違いはないが、権能の点で両者の間には大きな違いがある。
〔1〕衆議院の優越性 欧米諸国にみられるように、下院は国民の意思を直接代表するものとする伝統的な考え方に従って、下院に相当する衆議院の権限は参議院よりも強大である。たとえば、参議院のもたない内閣不信任決議権を有し、予算案を先議し、法律案の議決、予算の議決、条約の承認、内閣総理大臣の指名などにおいて、衆議院の議決が参議院の議決に優先する。これを跛行的両院制(はこうてきりょういんせい)とよぶが、このような衆議院(下院)の優越は、一般に現代の民主国家において共通の現象である。
〔2〕参議院の特質 参議院に期待されているものは、衆議院の「数の政治」に対して、その軽率や行きすぎを是正し「理の政治」を行うことであり、国民に基礎を置きながら政党の争いの外にたち、中立公正な知識を結集することである。当初、議員は政党に属さず、是々非々主義をとる緑風会に属する者が多数いたが、しだいに政党化の方向をたどり、緑風会は1965年の通常選挙で消滅した。その後、参議院の政党化はますます顕著になり、その代表的機能が衆議院と変わらなくなって、両院制のもつメリットが失われるに伴い、その存在理由について種々議論されてきた。そして、全国区については、とくに選挙費用がかかりすぎる、選挙運動がたいへんであるなどの理由によって、一定の要件を備えた政党・政治団体の作成する候補者名簿による比例代表選出方法が公職選挙法改正(1982年8月)によって採用された。そのため、いっそう政党中心の傾向が進んでいる。
[池田政章]
〔1〕議員定数 衆議院は1947年から長い間行われてきた中選挙区制が1994年(平成6)小選挙区比例代表並立制に改められ、議員定数は小選挙区選出289人、比例代表選出176人である。参議院は当初、全国区100人と地方区152人の選挙制度で、衆議院と異なる構成になるように始められたが、1982年に全国区は比例代表制に変更され、比例代表選出100人、選挙区選出148人となった。そのため両院は似たようなものとなり、参議院は「衆議院のカーボン・コピー」と評されてもいる。議員定数の配分については国勢調査の結果によって更正することになっており、衆議院議員では、中選挙区制のときには4回の手直しが行われ、さらに1994年に小選挙区比例代表並立制が採用された。参議院議員についても1994年以降、数度の手直しが行われた。以上の手直しにもかかわらず、人口移動により、各選挙区間にみられる議員定数の不均衡はいまだに解消されていない。このような較差は選挙権の平等に反するとして、衆参両議院いずれについても、その違憲を主張する訴訟が何度も起こされている。
〔2〕役員 衆参各議院には議長、副議長、仮議長、常任委員長、事務総長の役員が置かれる。議長、副議長は各1名で任期はおのおの議員としての任期による。議長は、議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する。議長に事故があるとき、または議長が欠けたときには副議長が、議長・副議長がともに事故があるときには、仮議長を選挙し、議長の職務を行う。常任委員長は、各議院の常任委員のなかから選挙される。事務総長は、各議院において国会議員以外の者から選挙され、議長の監督のもとに議会の事務を統理し、公文に署名する。
〔3〕委員会 各議院の委員会には常任委員会と特別委員会の2種類がある(国会法40条)。常任委員会は衆議院、参議院ともに17、議員は少なくとも一個の常任委員となる。特別委員会は、各議院においてとくに必要があると認めた案件、または常任委員会の所管に属さない特定の案件を審査するために随時設置される。常任委員および特別委員は、各会派の所属議員数の比率により各会派に割り当てて選任される。明治憲法下の帝国議会では、本会議を中心にして議案の審議が行われたが(本会議中心主義)、現在は委員会を中心にそれが行われている(委員会中心主義)。そのため委員会は、国会の活動の重要な組織として位置づけられ、小立法府とよばれることもある。この制度は、各議院における審議を能率的ならしめるためには、少数の議員からなる委員会で十分に審議を尽くし、それが終わってから議院の会議(本会議)にかけるのが便利だという考えに基づいている。
〔4〕両院協議会 衆参両議院はそれぞれ独立して議事を行い議決するが(独立活動の原則という)、例外として、両議院にまたがる両院協議会が開かれることがある。すなわち議案について両議院の意見が対立した場合に、両者の間に妥協案を成立させる目的で設けられる。必要があったときに一院が他院に向かって開くことを求め、他院がこれに応じたときに開かれる。メンバーは各議院で選挙されたおのおの10人の委員で組織される。
〔5〕付置機関 各議院には事務局および法制局が設置され、また国会には国立国会図書館および弾劾裁判所が設置される。事務局には事務総長、参事そのほかの職員が置かれる。法制局は議員の法制に関する立案に資するために置かれ、法制局長、参事その他の職員によって構成される。国立国会図書館は、議員の調査研究に資するとともに、行政・司法の各部門および国民一般に対し図書館奉仕を提供するために設置される。また弾劾裁判所は罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するために設置される。
[池田政章]
国会議員は全国民を代表する地位に置かれ、特定の地方、党派、職業の代理人ではない。またその活動について、選挙人その他なんぴとの意思や指図にも拘束されることがないとされるが、現実には政党による拘束が強く、また一定地域あるいは選出母体の利益代表という性格を負わされていることも否定できない。
衆議院議員は定数465人、任期4年で、被選挙資格は満25年以上。参議院議員は248人、任期6年で、被選挙資格は満30年以上である。
議員はその職責を十分に果たすことができるように、免責特権(憲法51条)、不逮捕特権(憲法50条)の特典が与えられているほか、歳費請求権(憲法49条)を有する。また、それぞれの議院の活動に参加する権能として、発議権、質問権、質疑権、討論権、表決権をもつ。議員は少なくとも一個の常任委員となり、本会議、委員会に出席する義務がある。院内の秩序を乱した議員は懲罰に付せられる。
[池田政章]
国会は一般に立法府とよばれているように、「国の唯一の立法機関」として、法律の制定をはじめ、憲法改正の発議、予算の議決、条約の承認など、広く国の立法に関する権能をもっている。同時に「国権の最高機関」としてそれにふさわしい国政上の重要な権能、たとえば内閣総理大臣指名権、裁判官弾劾権などを有する。国会の権能の行使については、両議院は別々に会議を開き、別々に議決をするわけであるが、両院の議決が一致することが必要で、この点で、両院がそれぞれ単独で行使する「議院の権能」とは区別される。
[池田政章]
立法とは、形式的意味では法律を制定する作用で、発案、審議、議決、署名(主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署する)、公布(天皇が公布し、官報に掲載される)の段階で行われる。法律案は議員によって発議されるほか、内閣もこれを提出することができる。内閣にも法律案の提出権があるかについて学説は分かれるが、通説はこれを認め、実際にも行われており、実状は内閣提出法案の数がその大半を占めているが、議員提出の法案が増加する傾向がみられる。議員が法律案を発議するには、衆議院においては議員20人以上、参議院においては議員10人以上(予算を伴う場合は、それぞれ50人以上、20人以上)の賛成が必要である。法律案が発議または提出されると、議長はただちにこれを所管の常任委員会に付託し、審議はこの常任委員会を中心に展開され、本会議にはそれほどの力点は置かれていない。法律案は両議院で可決したとき法律となる。衆議院で可決した法律案について、参議院でこれと異なった議決をしたときは、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数でふたたび可決すれば、衆議院で議決した内容で法律として成立する(憲法59条)。
憲法改正案については、各議院はその総議員の3分の2以上の賛成による発議だけをなし、最終決定は国民投票の結果にゆだねられる。
予算の議決については、法律案と異なり、まず先に予算案が衆議院に提出される(衆議院の予算先議権という)。予算審議で問題となるのは、国会が修正権をもつかどうかという点であるが、減額修正は自由にでき、増額修正は内閣の予算作成権を害しない程度なら認められると解されている。
条約の承認は、内閣が締結した条約について、原則として事前に、またときによって事後になされる。国会の承認がなければ条約の効力は生じないと解する説が有力である。また国会が条約の修正権を有するかという点について、肯定説、否定説の両説があるが、否定説が有力である。
[池田政章]
内閣総理大臣の指名権、裁判官弾劾裁判権のほか、法律が定める緊急事態の布告の承認(警察法74条)、自衛隊の防衛出動・治安出動の承認(自衛隊法76条・78条)などを有する。まず、内閣総理大臣は、国会の議決によって国会議員のなかから指名されるが、その際、国会は、他のすべての案件に先だって内閣総理大臣の指名を行うことになっている(衆議院の優越が認められる)。この権能は、衆議院の内閣不信任決議権と相まって、議院内閣制の基礎をなす。
次に、裁判官の弾劾については、いわゆる同僚裁判を避けて、国会議員によって構成される裁判官訴追委員会(各議院から各10人を選挙)が訴追し、弾劾裁判所(各議院から各7人を選挙)が、裁判官に重大な職務上の義務違反や非行があったかどうかを判断し罷免の適否を決する。弾劾裁判所は国会の機関ではないので、閉会中もその職務を行うことができる。
[池田政章]
憲法は「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」(83条)と規定し、財政立憲主義の原則を定めた。まず租税を課したり、現行の租税を変えるときは法律によらなければならない(84条)。これを租税法律主義という。次に、国の収入をどのように支出するかについて国民が監督すべきであるから、予算は国会の議決が必要とされる(86条)。さらに、予算によって定められた支出が現実に守られたかどうかを検査する必要があり、会計検査院がそれを行うが、国会は検査報告とともに内閣から提出された決算を審議し、内閣にその責任を問うことができる(90条)。内閣は国会に対して国の財政状況について報告しなければならない(91条)。
[池田政章]
両議院が共同して行う権能を国会の権能というのに対し、各議院が単独に行使しうる権能を議院の権能という。このなかには、両議院に共通に認められるものとして、法律の発案権、自律権、国政調査権、請願の受理などがあり、衆議院にのみ認められるものとして、予算の先議権、内閣不信任決議権などがあり、参議院は緊急集会中の権能を有する。
[池田政章]
自律権とは、両院がそれぞれ独立して議事を開き、審議・議決する権利である。そこで各院は他の機関から干渉を受けることなく十分に審議を尽くすために、おのおのその内部組織や運営、および内部規律について自主的に決定しうる権限が与えられている。議員の資格に関する争訟を議院自らが裁判する権限、議長その他の役員を選任する自主組織権、議院規則制定権(衆議院規則、参議院規則、参議院集会規則などがあり、その効力は法律に劣る)、議員の懲罰権(懲罰の種類に、戒告、陳謝、登院停止、除名がある)、議員の有する不逮捕特権の例外として会期中にその議員の逮捕を許諾するかどうかを決定する権能、および会期前に逮捕された議員について会期中釈放を要求する権能などがそれである。
[池田政章]
国会が立法府としてまた国民代表機関としての職責を果たすためには、国政に関して一般的な調査権をもつことが必要である。そのため国政調査権は、広く立法、行政、司法、財政に関する事項など国政全般に及び、それらに対する監督的権能(とくに行政に対して)を果たすことが期待されている。事実、これまでに、国会はこの調査権に基づいて、昭電疑獄事件、炭鉱国管事件、ロッキード事件など数々の汚職の摘発などに大きな成果をあげてきた。ただし司法権の独立を侵すような調査、これに準ずる検察権に対する調査、公務員の守秘義務に属する事項に関する調査については限界があり、また人権侵害になるような調査方法は行われてはならないとされる。
[池田政章]
衆議院のみがもつ権能であり、議院内閣制を基礎づける重要な権能である。これに対して内閣は衆議院の解散権をもつ。参議院の場合は、内閣の責任を追及する手段として問責決議案を提出することがあるが、法的な効力はなく、事実上の責任追及手段にすぎないと解されている。
[池田政章]
〔1〕会期 国会の活動がなされる期間を会期といい、常会、臨時会、特別会の3種類がある。
〔2〕常会・臨時会・特別会 常会は毎年1回1月に召集され、会期は150日間。臨時会はいずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があった場合、臨時に召集され、特別会は総選挙後30日以内に召集される。臨時会・特別会の会期の長さ、および会期の延長は、両議院一致の議決で定めるが、一致しないとき、または参議院が議決しないときは、衆議院の議決が優越する。通常、議院内閣制のたてまえから、政府の意図が実現されるので、政府の便宜的な会期延長に対し、野党が強く反対して国会が混乱に陥ることがある。延長は、常会が1回、臨時会・特別会は2回しか許されない。
〔3〕召集 会期を開始させる行為を召集といい、内閣の助言と承認により天皇が召集するが、いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時会の召集を決定しなければならない。
〔4〕休会 日本国憲法は、明治憲法のような停会を認めていないが、両議院一致の議決による国会の休会と、各議院の議決による各議院の休会(10日以内)を認めている。
休会は、国会または議院が活動を休止することをいい、国の行事、年末年始、そのほか議案の都合によって行われる。俗に「自然休会」とよばれるのは、議決によらず慣例上または申合せによってする休会で、年末年始の休会などがこれにあたる。
〔5〕衆議院の解散 解散は議員の任期をその満了前に終結させる行為で、内閣の助言と承認に基づいて天皇が行う。衆議院だけに認められ、参議院にはない。解散は国会会期中に行われ、会期もそれと同時に終了する。参議院は閉会となる。日本国憲法によれば、内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、あるいは信任の決議案を否決したときは、衆議院を解散するか、総辞職するかのいずれかを選ばなければならない(憲法69条)とされているが、前述した場合に限らず、憲法第7条に基づいて、内閣は理由があると認めたときは随時、解散の決定を行うことができると解されている。たとえば、衆議院がそのときの国民の世論を代表する程度につき疑いがあると認められる場合、新たに重大な政治上の事件が生じた場合、内閣がその政策の根本的な変更を行おうとする場合などが考えられる。衆議院が解散されたときは、解散の日から40日以内に衆議院議員の総選挙が行われる。
〔6〕参議院の緊急集会 国会はつねに開会できる態勢にあることが望ましいが、衆議院解散後新国会が成立するまでの間は、国会を召集することが不可能である。そこで、この期間中に国会の議決を要する緊急の必要が生じたとき、参議院に国会の権能を臨時に代行せしめるために設けられたのが、参議院の緊急集会の制度である(憲法54条2項)。内閣の求めによって開かれ、そこで決められたことは、次の国会開会ののち10日以内に衆議院の同意を得る必要がある。緊急集会はこれまでに1952年(昭和27)、1953年の2回開かれたことがある。
[池田政章]
国会の議事手続は、その活動を能率的に行わせることを目的とする。したがって、多数派の発言に対し権威を認めると同時に、少数派の発言も十分に保障しなければならない。その点、二大政党が対立し、政局が安定していれば、議事手続に関し問題は起こらないが、小党分立の場合には、各政党を尊重する立場から議事法の解釈をしなければならない。
〔1〕定足数と表決 合議制は、つねに全員が同時に集合して意思を決定することは事実上困難である場合が多く、普通、一定数の出席があればよいとされ、この一定数を定足数という。議事の定足数(会議として活動できる定数)、議決の定足数(意思を決定することのできる定足数)は、本会議については総議員の3分の1、委員会は委員の半数で、表決は原則として出席議員の過半数で決し、可否同数のときは議長(委員長)が決する。
〔2〕公開の原則 国会の活動は、公開を原則としている(ただし委員会などではこの原則はかならずしも認められていない)。ただ、出席議員の3分の2以上の多数の議決で秘密会となることがある。会議についての傍聴の自由、報道の自由が認められ、国民は各種のマス・コミュニケーションを通じて会議の内容を知ることができる。傍聴には、議員の紹介によるほか、先着順に傍聴券が配布される。公開の原則に基づき、両議院はおのおのその会議録を保存、公表、かつ一般に頒布しなければならないことになっている。
〔3〕一事不再議・会期不継続の原則 一事不再議とは、議院において一度議決が決まったのちは、同じ案件について、同会期中に重ねて審議することを許さない原則をいう。
また、同一の会期で議決に至らなかった案件は、各議院で継続審査の議決を得ない限り、次の会期に継続しないという「会期不継続の原則」も同様に認められている。
[池田政章]
『大石眞著『議会法』(2001・有斐閣)』▽『浅野一郎・河野久編著『新・国会事典』第2版(2008・有斐閣)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
近代立憲国家の立法府で,国民を代表する機関。日本で最初の国会は,1889年(明治22)発布の大日本帝国憲法にもとづき90年に開会,帝国議会とよばれた。第2次大戦後の1947年(昭和22)5月3日,日本国憲法の施行により帝国議会にかわって国会が制式の呼称となった。国会は「国権の最高機関」「国の唯一の立法機関」と規定され,ともに公選の議員による衆議院・参議院の二院制で,内閣総理大臣の指名,予算の議定,法律の制定,条約の承認など広い権限をもち,議会制民主主義にもとづく国政運営の中心となっている。会議には毎年定期的に召集される通常国会,臨時の必要による臨時国会,衆議院議員総選挙直後の特別国会の別がある。第1回国会(特別)は47年5月から12月まで。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… なお,社会主義諸国や第三世界諸国でも,形のうえでは議会に似た合議体がおかれることが少なくないが,議会制は,歴史的存在としては,資本主義諸国のなかで,複数政党制と政治批判の自由の存在を前提として展開してきたものであり,両者のあいだには基本性格のちがいがある。
【日本の議会】
日本では,明治初期に,自由民権運動の中心課題として,国会設立の要求が出された。1881年に国会開設を約束する勅諭が発布されるのと並行して自由民権運動は退潮し,89年に大日本帝国憲法が発布され,90年に貴族院と衆議院から成る帝国議会が発足した。…
…アメリカとちがって,イギリスの常任委員会は,事項ごとの専門別委員会ではなく,A,B,C,……の名称を与えられ,議長によって審議事項が配分される。
【日本】
日本国憲法は,委員会制についてなんらの定めもおいていないが,国会法および両院の議院規則によって,委員会中心主義を採用した。国会法は,衆議院につき18,参議院につき16の分野別常任委員会をおくことを定めているほか,各院がその院においてとくに必要があると認めた案件または常任委員会の所管に属しない特定の案件を審査するため,特別委員会を設けるむね,定めている。…
…大日本帝国憲法のもとでの立憲学派の学説や民本主義論の主張,およびそれに対応する護憲運動は,帝国憲法の枠のなかで〈代議政治〉を前提としつつ〈議院政治〉をも実現してゆこうとする努力にほかならなかった。日本国憲法によって,国会は〈国権の最高機関〉(41条)とされ,議院内閣制の機構も明文(66条3項ほか)で定められて,〈代議政治〉さらには〈議院政治〉の前提は,制度的に確立された。しかも,議会にはほぼ一貫して安定した与党が存在し,そのうえに基礎をおく安定政権が存在してきたから,〈議院政治〉の意味での〈議会政治〉があらためて問題とされることは少なかった。…
※「国会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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