ドゥーマ(読み)どぅーま(英語表記)дума/duma

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドゥーマ」の意味・わかりやすい解説

ドゥーマ
どぅーま
дума/duma

正確にはГосударственная дума/Gosudarstvennaya duma。1906~17年のロシア帝国議会。1905年革命のさなか、「十月宣言」によって開設が約束された。帝制政府はこれによってブルジョアジーとの同盟を達成し、ブルジョア君主制へ移行しようとした。国会立法権は制限されたもので、法律案は皇帝の承認なしには成立せず、またその招集解散権も皇帝に留保されていた。議員の選挙は、土地所有者(地主)、都市(ブルジョアジー)、農民、労働者の四つに分けて行われる間接選挙制であり、婦人、学生、軍務従事者は選挙権をもたなかった。以下、第一国会から第四国会まで簡単に概観する。

(1)第一国会(1906.4.27~7.8) 地主の1票は都市ブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当したといわれる不平等な選挙であったにもかかわらず、政府に近いオクチャブリスト(十月党)はわずか16人、ほかはカデット立憲民主党)179、民族自治派63、無党派105、農民の要求を代表していたトルードビキ97、社会民主党18という構成であった。土地問題がおもな議題であったが、とうてい政府の意に添わず、軍隊によって解散させられた。

(2)第二国会(1907.2.20~6.2) 第一国会選挙をボイコットしたボリシェビキも加わって、その構成はいっそう反政府的となり、ストルイピン農業改革実施のための1906年11月9日勅令の追認にも応じなかったため、解散と新選挙法公布が行われた。

(3)第三国会(1907.11.1~1912.6.9)新選挙法によってオクチャブリストは第一党となり、法定会期を全うした。

(4)第四国会(1912.11.15~1917.10.6)進歩派がわずかに増大。第一次世界大戦が長期化すると、政府と国会との対立が目だつようになり、1917年2月27日、国会は国会臨時委員会を選出し、臨時政府を形成して、崩壊した帝制政府にかわって政権を引き継いだ。

[木村英亮]

『中村義知著『ロシア帝国議会史』(1966・風間書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドゥーマ」の意味・わかりやすい解説

ドゥーマ
Duma

1906~17年の立憲制期における帝政ロシアの立法府下院 (国会) 。正式には Gosudarstvennaya Duma (国政審議会) という。 05年革命のさなかの 10月 30日 (旧暦 17日) ニコライ2世の「十月宣言」によってその開設を約束され,翌 06年5月 10日 (旧暦4月 27日) 招集された。常に左右両翼に分裂し,専制の擁護者はその存在そのものに憤慨していたのに対して,民主主義者はその不十分な権限と間接不平等選挙権に反対していた。しかし多くの欠陥にもかかわらず,それは恣意的な統治に対する制約として機能し,ロシア社会の少くとも一部に憲政の観念と実践を習熟させることを助けた。第1から第4ドゥーマまで存続し,17年 11月 (旧暦 10月) の革命とともに消滅した。

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