カデット(読み)かでっと(英語表記)Кадеты/Kadetï ロシア語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カデット」の意味・わかりやすい解説

カデット
かでっと
Кадеты/Kadetï ロシア語
Kadets 英語

帝政ロシア政党立憲民主党Конституционно‐демократическая партия/Konstitutsionno‐demokraticheskaya partiyaの略称。公式には「人民自由党」といった。1905年10月、歴史家ミリュコーフを中心に、イギリス流の立憲政治と自由主義的な改革を掲げて結成された。メンバーには弁護士、大学教授、医師、技師、実業家など自由主義的傾向の人々が加わり、06年1月の第2回党大会には党員10万、地方支部42を数えるまでに成長した。立憲民主政治、地主への補償を伴った土地の再配分、8時間労働制などを掲げ、第1国会では「政治的自由と社会的正義」をスローガンにして179議席を獲得し第一党となった。第一次世界大戦中は戦時産業委員会で大きな役割を果たし、17年、二月革命後臨時政府が成立したときは、非社会主義政党としては唯一の有力な党であった。リボフ公を首班とする臨時政府に、外相ミリュコーフ以下6名の閣僚を送ったが、ミリュコーフは戦争継続政策をとったところから、民衆抗議を受け辞任をやむなくされた。第二次連立内閣でも4名の党員を入閣させたが、しだいにSR(エスエル)とボリシェビキに人気を奪われ、国民の支持を失うようになった。

 十月革命後の11月28日(新暦12月11日)ソビエト政府は、カデットを「人民の敵の党」と宣言し、メンバーの逮捕を開始した。多くのメンバーは1919年デニキン家の船でロシアを去り、ヨーロッパ各地やアメリカに亡命した。21年までに、これらの亡命者によって、パリベルリンに二つの中心がつくられ、前者はミリュコーフの指導下に機関紙『最新ニュース』を、後者はグッセンの下で『舵(ルーリ)』を発行した。

[外川継男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カデット」の意味・わかりやすい解説

カデット
Kadety; Cadets

ロシアの政党。立憲民主党 Konstitutsionno-Demokraticheskaya Partiyaの略称。 1905年革命のさなか,専制政府が「十月宣言」を発して国会 (ドゥーマ ) の開設を誓約し,政治結社の自由を認めたとき,「解放同盟」を基礎に歴史家 P. N.ミリュコーフの指導によって結成された,ロシアの代表的な自由主義政党。勤労大衆の支持を得るために「人民自由党」とも称したが,実際は都市ブルジョアジーと農村の進歩的な中小地主,自由職業階級の穏健分子を主要な地盤とし,前2者の階級的利害の調整によって,専制体制の倒壊からくる既成秩序の全面的崩壊を阻止することを目標とした。国会選挙中は,完全な市民権,国有地,教会領の解放,「必要なとき」は有償による私有地の分配をも公約し,06年第1国会で 478議席中 179議席を押えて一躍最大政党にのしあがった。 07年の第2国会では 520議席中 99議席となり,第2党に後退した。 17年二月革命でブルジョア臨時政府が形成されると,党首ミリュコーフは外相に就任,連合国との協調路線を踏襲して,同年4月戦争継続を宣言したが,戦争反対の大衆示威に屈服,辞職を強いられた。その頃を党勢の最高潮期として,以後「一切の権力をソビエトへ」のスローガンを掲げ急速に台頭したボルシェビキの前に,再び勢力を回復することはなかった。

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