日本大百科全書(ニッポニカ) 「オコーナー」の意味・わかりやすい解説
オコーナー
おこーなー
Sinéad O'connor
(1966―2023)
アイルランドのシンガー・ソングライター。ダブリンの労働者地区に生まれる。アイルランド訛(なま)りを意識的に使った唱法と、ジェンダー規範や社会通念にとらわれないパフォーマンス、そして繊細なメロディが同居するスタイルが特徴。
子ども時代は両親の不仲、離婚および母親の事故死が大きな影を落とす。13歳のときギターを手にし、14歳のときに参加したロック・グループ、イン・トゥア・ヌアのデビュー・シングル「テイク・マイ・ハンド」(1983)を共同作曲している。1985年にエンサイン・レーベルと契約し、ロンドンに出る。U2のギタリスト、ジ・エッジThe Edge(1961― )との共作を大きな足がかりとし、スタイル的実験を試みるようになる。頭髪をすべて剃り落としたのもこのころ。1987年に最初のソロ・アルバム『ライオン・アンド・ザ・コブラ』をリリース。当時の音楽市場が女性シンガーに求めたステレオタイプの音楽ではなかったため、当初売れ行きはふるわなかったが、アメリカのカレッジ・チャートで人気を得、攻撃性と繊細さを兼ね備えたイメージを確立してゆく(1980年代のライブの模様は『ザ・バリュー・オブ・イグノランス』(1989)で知ることができる)。
1990年の2枚目のアルバム『蒼い囁(ささや)き』ではプリンスが作曲したシングル・カット曲「愛の哀しみ」が17か国のヒット・チャートでトップを飾り、オコーナーの国際的知名度確立につながった。彼女の坊主頭も、レコード会社にとってはもはや抵抗の象徴ではなく、宣伝材料となった。同年HIV研究・救済支援のためのチャリティー・アルバム『レッド・ホット・アンド・ブルー』を発表したほか、チリにおけるアムネスティ・インターナショナル・コンサート参加など、積極的な政治・社会活動を行っていく。一方、1990年の全米ツアーでは、ニュー・ジャージー州のガーデン・ステート・アート・センターでのアメリカ国歌演奏拒否事件で、当時のニューヨーク州知事がその直後に同州で予定されていたコンサートのボイコットを呼びかけるなど社会問題化した。3枚目のアルバム『永遠の詩集/シンニード・シングス・スタンダード』(1992)発売後も、妊娠中絶禁止に抗議してアメリカのTV番組生出演中にローマ法王の写真を引き裂き、多くのラジオ局で放送禁止処分を受けた。4枚目のアルバム『ユニヴァーサル・マザー』(1994)でエンサインとの契約は終了する。その後の活動としては、ルワンダ支援のミニEP『ゴスペル・オーク』(1997)発表、映画『ブッチャー・ボーイ』(1997、監督ニール・ジョーダンNeil Jordan(1950― ))出演、チャリティー団体ウォー・チャイルド支援のためのキーボード、シンセサイザー奏者トーマス・ドルビーThomas Dolby(1958― )とのインターネットを使ったライブ共演「ゼム・ベリー・フル(バット・ウィ・ビ・ハングリー)」(1999)などがある。2000年以降は、アトランティックから『生きる力』を、2002年にバンガードからアイルランド・トラッド曲集『シャン・ノース・ヌア 永遠の魂』を発表したが、2003年音楽活動を停止すると宣言した。
オコーナーはPJハーベイPolly Jean Harvey(1969― )やリズ・フェアLiz Phair(1967― )など、後に出てくるより「率直」で「破格」な女性アーティストの原形となった。それと同時に、オピニオン・リーダーとしての市場の期待と一個人としての生き方の間の格差という、スターに典型的な板挟みに苦しんだアーティストである。従来のロック的「ロマン主義」ではこうした苦しみは自作曲による「自己表現」に解消されるのだが、彼女の場合は、最大のヒット曲がプリンスの作曲であるように、自作曲にこだわらず、むしろ慣れ親しんだ伝統音楽、スタンダード曲に向かった。それが彼女の商業的成功の歯止めになっていたと同時に、彼女の新しさであった。
[安田昌弘]
『Dermott HayesSinéad O'connor; So Different(1991, Omnibus Press, London)』