数学者。新潟市に生まれる。1877年東京大学理学部数学物理学星学科に入学し,82年卒業。83年イギリスからドイツに留学,ベルリン大学でK.ワイヤーシュトラスやL.クロネッカーにつき学んだ。翌年ストラスブールにうつり,E.B.クリストッフェルらに学び,86年7月学位論文《熱伝導論にあらわれる超越方程式の根を係数として展開される無限級数について》によって学位を得た。86年秋再びベルリンに戻りクロネッカーやE.E.クンマーに学び,87年5月帰国,6月直ちに25歳で帝国大学理科大学教授となった。帰国後は楕円関数の研究を行い,91年総長推薦による理学博士の学位を受けた。大学においてはセミナーを始め《藤沢博士セミナリー演習録》全5巻(1896-1900)として出版した。その中で97年の高木貞治,吉江琢児,林鶴一の演習録はとくに著しいものであった。彼は著書として1889年にすでに《生命保険論》を著し,その研究が統計数学の分野に及んでいた。90年ころからは数学教育や社会的活動に力を入れ,日本の数学教育に大きな影響を及ぼすことになる。95年には《算術条目及教授法》,《算術教科書》(1896),《初等代数学教科書》(1898),《数学教授法》(1900)などを著して彼の主張を表した。彼の算術はいわゆる〈かぞへ主義〉といわれるもので,当時流行の理論算術を排撃したものであった。大学教育においては日本で代数学の発達の遅れを憂いて高木貞治を養成したのである。国際的にはパリ,ケンブリッジなどで開かれた国際数学者会議に出席したり,1922年にマサチューセッツ州ウィリアムズタウンでの政治学会で講演したりした。1920年には学術研究会議会員,25年には貴族院議員となっている。
執筆者:小松 醇郎
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数学者。越後国(えちごのくに)(新潟県)生まれ。東京開成学校を経て、1882年(明治15)東京大学理学部を卒業。翌1883年からイギリス、ドイツに留学し、ベルリン大学でワイアシュトラースの講義を聞き、ストラスブール大学で解析学とくに関数論を研究した。1887年帰国して帝国大学理科大学教授となり、1891年理学博士の学位を得た。1900年(明治33)のパリでの第2回万国数学者会議には日本の代表として出席、和算について講演した。1906年帝国学士院会員となり、1921年(大正10)大学を定年退職、その後貴族院議員を務めた。
帝国大学の数学科の改革に力を尽くし、講義にはドイツ式のゼミナール方式を導入し、師の菊池大麓(だいろく)とともに後進の指導にあたり、高木貞治(ていじ)や林鶴一ら優れた数学者を世に送り出した。ヨーロッパの本格的な学問的数学を紹介する一方、生命保険理論の数学や統計学も紹介し応用数学の面で業績をあげた。
[井原 聰]
明治・大正期の数理学者 東京帝国大学名誉教授;貴院議員。
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…通称〈黒表紙〉)。そこでは藤沢利喜太郎の〈数え主義〉の原理が採用され,数の概念から量を分離してしまった。第1次大戦後,欧米の進歩的思想が入ってきていわゆる大正デモクラシーの時代になると,自由主義・児童中心主義の教育思潮が興り,〈数学的な思想を養い〉〈精神の開発〉と〈自発的な活動の助長〉をめざす算術教育の気運が盛り上がってきた。…
…当時は有限責任帝国生命保険会社)に次いで3番目に古い。それまで使われていた外国の生命表にかえて,東京帝大教授藤沢利喜太郎(1861‐1933)に作成を依頼した日本最初の日本人の生命表〈藤沢氏第二表〉を活用したことで有名。1891年日本生命保険(株)と改称,98年には日本で最初の契約者利益配当を行い,99年末には契約高が2300万円を突破し業界第1位となり,その地位を今日まで保っている。…
※「藤沢利喜太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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