品川弥二郎(読み)シナガワヤジロウ

デジタル大辞泉 「品川弥二郎」の意味・読み・例文・類語

しながわ‐やじろう〔しながはやジラウ〕【品川弥二郎】

[1843~1900]政治家長門ながとの人。松下村塾に学び、尊王攘夷運動活躍。明治24年(1891)松方内閣の内相翌年総選挙で猛烈な選挙干渉を行って引責辞任

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「品川弥二郎」の意味・わかりやすい解説

品川弥二郎
しながわやじろう
(1843―1900)

明治時代の官僚政治家。子爵。天保(てんぽう)14年閏(うるう)9月29日、長州藩士の子に生まれる。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)らと尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に活躍、戊辰戦争(ぼしんせんそう)には奥羽鎮撫使(ちんぶし)総督参謀として各地に転戦した。1869年(明治2)に弾正(だんじょう)少忠として明治政府に出仕、翌年大山巌(おおやまいわお)らと普仏戦争の視察のため渡欧、イギリス、ドイツ両国で留学を続け、1873年からドイツ公使館に勤務した。1876年帰国し、内務大丞(だいじょう)、大書記官、少輔(しょうゆう)を歴任して、1881年農商務省の新設に伴い農商務少輔に転じ、翌年大輔(たいふ)となる。その間、大日本農会、大日本山林会、大日本水産会の創立にあたり、共同運輸会社を援助して三菱(みつびし)汽船会社に対抗させるなど、政府の勧業政策全般を指導した。1885年駐独公使に転じ、1887年帰国後は枢密顧問官、宮中顧問官を歴任、一方、宮内省御料局長を兼任して皇室財産の整理にあたった。1891年第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相となり、翌年の第2回総選挙では官憲を指揮して大選挙干渉を行い、民党議員の選出を阻止しようとして失敗した。引責辞任後ふたたび枢密顧問官となったが、1892年国民協会の結成を支援してその副会頭に推されたため顧問官を辞任した。しかし日清(にっしん)戦争後国民協会の党勢は振るわず、その間に資産も失い、1899年三たび枢密顧問官に任じられたのを機に党務から離れた。翌明治33年2月26日死去。内相時代に信用組合法を議会に提出、これ以後信用組合設立の機運が生まれたため、産業組合運動の先覚者とされている。

[宇野俊一]

『奥谷松治著『品川弥二郎伝』(1940・高陽書院)』『尚友倶楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編『品川弥二郎関係文書』(1993~ ・山川出版社)』


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百科事典マイペディア 「品川弥二郎」の意味・わかりやすい解説

品川弥二郎【しながわやじろう】

明治の政治家。長州萩藩出身。松下村塾に入り,尊攘・倒幕運動に参加。薩長同盟に尽力し戊辰(ぼしん)戦争では東北各地を転戦した。1870年渡欧しプロイセンの農政,協同組合を研究。1881年農商務省大輔となり大日本農会,共同運輸会社設立に尽力した。1891年松方正義内閣内務大臣となり,翌年第2回総選挙には大選挙干渉を行い辞職,国民協会を組織し,その副会頭,会頭となる。
→関連項目国民協会独協大学とんやれ節平田東助

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改訂新版 世界大百科事典 「品川弥二郎」の意味・わかりやすい解説

品川弥二郎 (しながわやじろう)
生没年:1843-1900(天保14-明治33)

明治期の政治家。長州藩士分の弥市右衛門の子として生まれ,吉田松陰の松下村塾に学び,禁門の変などで尊攘派の志士として活躍した。鳥羽・伏見の戦で官軍が歌った〈トコトンヤレ節〉の作詞者としても有名である。維新後は明治政府に仕え,1870年(明治3)ドイツに留学し,そのままドイツ公使館に勤めた。76年帰国して内務省,農商務省に勤め,85年から2年間ドイツ公使を務めた。91年第1次松方正義内閣の内務大臣となり,第2回総選挙の指揮をとって〈民党〉議員の選出を阻もうとした。選挙後内務大臣を辞し国民協会を組織し,副会頭,会頭となった。内相在任中に起草した信用組合法案は,のちの産業組合法の先駆として知られている。子爵。
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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「品川弥二郎」の解説

品川 弥二郎
シナガワ ヤジロウ


肩書
内相,枢密顧問官

別名
変名=橋本 八郎

生年月日
天保14年閏9月(1843年)

出生地
長門国(山口県)

経歴
松下村塾に入門。尊王攘夷運動に挺身し、明治元年戊辰戦争には奥羽鎮撫総督参謀として従軍。6年外務省書記官(ドイツ駐在)、15年農商務大輔、18年ドイツ公使、21年枢密顧問官を経て、24年松方内閣の内相。25年選挙干渉の責を負って辞任。その後西郷従道らと国民協会を組織し、副会頭。20年には京都に尊攘堂を設立した。

没年月日
明治33年2月26日

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「品川弥二郎」の意味・わかりやすい解説

品川弥二郎
しながわやじろう

[生]天保14(1843).9.26. 長州
[没]1900.2.26. 京都
政治家。長州藩の下級藩士。吉田松陰門下。安政の大獄後脱藩,尊王攘夷運動に参加した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。明治3 (1870) 年に普仏戦争視察のために渡欧,同5年外務省書記官,代理公使としてドイツに駐在。 1876年帰国後,内務大書記官,内務少輔,農商務大輔を歴任して,85~87年駐ドイツ公使。 91年に松方正義内閣の内務大臣となって,92年の第2回総選挙で有名な選挙干渉を行なったが,世論の攻撃により辞任。同年に国民協会をつくって副会頭となった。子爵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「品川弥二郎」の解説

品川弥二郎 しながわ-やじろう

1843-1900 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)14年閏(うるう)9月29日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。尊攘(そんじょう)運動で活躍。維新後,ヨーロッパに留学。農商務大輔(たいふ)などをへて,第1次松方内閣の内相となる。明治25年の総選挙で選挙干渉をおこない引責辞任。新政府軍の軍歌「宮さん宮さん」の作詞者,信用組合の育成者としても知られる。子爵。明治33年2月26日死去。58歳。名は日孜。字(あざな)は思父。変名は橋本八郎。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「品川弥二郎」の解説

品川弥二郎
しながわやじろう

1843.閏9.29~1900.2.26

幕末期の萩藩士,明治期の藩閥政治家。松下村塾に学び尊王攘夷運動に従事,第2次長州戦争では御楯隊参謀として軍功をあげ,薩長連合締結にも連絡役を務めた。維新後,内務少輔・農商務大輔・ドイツ公使などを歴任。1891年(明治24)第1次松方内閣の内相,翌年第2回総選挙の選挙干渉責任問題で辞任。同年夏に国民協会を結成したが,第2次伊藤内閣と対立して不振に終わった。子爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「品川弥二郎」の解説

品川弥二郎
しながわやじろう

1843〜1900
明治時代の政治家
長州藩下級武士出身。子爵。吉田松陰に師事し,尊王攘夷運動に参加。1870年イギリス・ドイツに留学し,帰国後内務・農商務の要職を歴任。'83年三菱の海運独占を破るため共同運輸会社を設立。'91年第1次松方正義内閣の内相となり,翌年第2回総選挙には大干渉を行い,民党に圧力をかけた。

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防府市歴史用語集 「品川弥二郎」の解説

品川弥二郎

 1843年に生まれ、松下村塾[しょうかそんじゅく]で学び、尊皇攘夷[そんのうじょうい]運動に参加した人です。明治維新[めいじいしん]後は政府で要職をつとめ、内務大臣[ないむだいじん]をつとめました。1900年に亡くなっています。

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世界大百科事典(旧版)内の品川弥二郎の言及

【国民協会】より

…(1)1892年,第1次松方正義内閣の下で行われた第2回総選挙で,品川弥二郎内相の選挙干渉に助けられて当選した政府系議員が,内相を辞任した品川を中心に同年6月に結成した保守的政党。軍備の拡充,実業の振興,国権の拡張をかかげる典型的な〈吏党〉であったが,条約改正問題で第2次伊藤博文内閣と対立して与党的地位を失った。…

【産業組合】より

…産業部門の成長が本格化しつつあった明治中期において,経済政策上の大きな課題は,食糧自給の確保や輸出伸張による外貨の獲得であり,また,家族自営業や小資本経営の維持・向上をとおして地方行政の安定を図ることであった。1891年ドイツの都市型信用組合を範として,品川弥二郎,平田東助の案出した,信用組合法案が内務省から提出されたが審議未了に終わった。その後,ドイツの農村型各種事業兼営協同組合を範として農商務省から提出され,成立したのが産業組合法である。…

【選挙干渉】より

…日本の総選挙史上では,大規模な選挙干渉がこれまで3度あった。 1892年の第2回総選挙では,松方正義内閣の内相品川弥二郎と次官白根専一とが指揮をとり,民党候補者に対して大選挙干渉を行った。品川は地方長官に対し,政府反対の議員の選挙区では有力な対立候補を立てて応援し,政府反対の議員の当選を極力妨害することを内訓しており,警察による戸別訪問や投票勧誘,民党候補者の演説会場襲撃,民党運動員に対する傷害行為等が行われた。…

【独協大学】より

…埼玉県草加市にある私立大学。1881年,ドイツ帝国の学問と法制を研究する独逸学協会が設立され,それを母体として83年協会委員長品川弥二郎が開設した独逸学協会学校(初代校長西周)を起源とする。ドイツ語およびドイツの法律・政治学の教授を標榜し,中学教育に重点がおかれ進学校となる。…

※「品川弥二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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