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「フォンタネージ」の意味・読み・例文・類語
フォンタネージ(Antonio Fontanesi)
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フォンタネージ
- ( Antonio Fontanesi アントニオ━ ) イタリアの画家。ヨーロッパ各地に遊学し、風景画家として名をなす。明治九年(一八七六)日本政府の招きで来日、工部美術学校教授となり、浅井忠、小山正太郎、五姓田義松らを教えた。二年後帰国、王立トリノ美術学校教授をつとめた。(一八一八‐八二)
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フォンタネージ
Antonio Fontanesi
生没年:1818-82
イタリアの画家。レッジョ・エミリアに生まれる。同地の美術学校で地方画家のプロスペロ・ミンゲッティに学び,1848年トリノへ出てイタリア独立戦争に参加。除隊後はスイスに滞在するが,55年のパリ万国博覧会を機にパリへ出て,コローやテオドール・ルソーらバルビゾン派の画家たちの作品に親しみ,またラビエAuguste Ravierをはじめリヨン派の画家とも親交を結ぶ。各地に旅行して制作。風景画のなかにロマン主義の精神によって高揚された生命感を導入。とりわけ1865-66年のロンドン滞在で,コンスタブルとターナーの作品に感銘。詩情豊かな牧歌的風景画に,光学的な感覚と色彩の科学を見いだす。69年トリノのアルベルティーナ美術学校の風景画教授になる。76年,日本政府が工部美術学校を創立して,本格的な西洋美術教育を実施するに際して,〈御雇外国人教師〉の一人として,ラグーザ,カペレッティとともに来日。石膏像,画学教科書,画材などを携帯してきて,デッサン,油彩の基礎教育を行う。日本人の通訳を介して,ヨーロッパの画家たち,なかでもバルビゾン派のコローやミレーの話をしている。
病のために2年間の滞日であったが,その人間的な魅力は多くの生徒から敬愛され,また初歩的な段階にあった日本の洋画技法を正則な軌道にのせる役目を果たした。生徒には小山正太郎,松岡寿,浅井忠,五姓田義松,山本芳翠らがいる。帰国後は療養のかたわらトリノの美術学校で教え,多くの風景画を描いた。19世紀イタリアの最もすぐれた風景画家の一人として,高い評価を得ている。
執筆者:酒井 忠康
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フォンタネージ
Fontanesi, Antonio
[生]1818.2.23. レッジョエミリア
[没]1882.4.17. トリノ
イタリアの画家。 1832年レッジョの市立美術学校に入学。 1847年第1次イタリア独立戦争に参加し,除隊後ジュネーブに住む。しばしばヨーロッパ各地を旅行して新しい絵画思潮に触れたが,ことに 1855年のフランス旅行で発見したバルビゾン派の自然描写と,1865~66年のロンドン滞在中に見たターナーとコンスタブルの光の表現に強い影響を受け,光の微妙な効果をとらえた自然描写のうちに,繊細な詩情を漂わせる独特の画風を確立。 1866年イタリアへ帰り,1868年ルッカの美術学校校長兼教授,1869年トリノのアルベルティーナ美術学校風景画教授。 1876年官設の工部美術学校の創立に際し,明治政府に招かれ,1878年まで日本で教鞭をとった。わずか2年間の滞在であったが,浅井忠,小山正太郎,松岡寿ら多くの画家を育て,日本の洋画の発展に尽くした。 1879年アルベルティーナ美術学校教授に復職したが,健康を害し4年後に没した。主要作品『徒渉』 (1861) ,『十月の朝』 (1862,ローマ国立近代美術館) ,『嵐の前』 (1874) ,『春の太陽』 (1875~76) ,『サン・マウロのポー河の夕暮』 (1880~81,トリノ市立近代美術館) 。
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「フォンタネージ」の意味・わかりやすい解説
フォンタネージ
イタリアの風景画家。1848年イタリア統一運動に参加後,1850年からスイス,フランス,英国に遊学し,ドービニーらと親交を結んだ。1869年トリノの王立美術学校教授となり,1876年日本の工部美術学校の創設時に招かれて来日。1878年までの2年間の滞日ながら,明治初期の洋画家育成に大きく貢献し,門下から浅井忠,小山正太郎,松岡寿らを出した。
→関連項目五姓田芳柳|千葉県立美術館|山本芳翠
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フォンタネージ
ふぉんたねーじ
Antonio Fontanesi
(1818―1882)
イタリアの画家。明治時代に来日して日本洋画の育成に貢献した。北イタリアに生まれる。郷里のレッジョ美術学校卒業後、フランス、イギリスなどヨーロッパ各地を遊学した。バルビゾン派風の風景画に一家をなし、1868年ルッカ美術学校校長、翌1869年には王立トリノ美術学校教授に進んだ。1876年(明治9)日本政府に招かれて工部美術学校画学科の教師に就任。その本格的な西洋画法の伝授は、浅井忠(あさいちゅう)、小山正太郎(こやましょうたろう)、松岡寿(まつおかひさし)、山本芳翠(やまもとほうすい)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、中丸精十郎(なかまるせいじゅうろう)(1840―1895)ら、初期洋画壇の多くの俊秀を育てた。病を得て1878年辞職して帰国、トリノに没。『不忍池(しのばずのいけ)』(東京国立博物館)、『牧牛図』(東京芸術大学)などがある。
[小林 忠 2018年8月21日]
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フォンタネージ
没年:1882.4.17(1882.4.17)
生年:1818.2.23
明治期に来日したイタリア人画家。工部美術学校画学教師。北イタリアのレッジョ・エミリア生まれ。レッジョの市立美術学校に学び,イタリア統一運動に参加。1849年以後スイス,フランスを旅行し,55年のパリ万国博でバルビゾン派を知り,のちドービニーらと交友し同派の画風を摂取,またイギリス風景画派にも学んだ。68年からルッカ,トリノの美術学校で教える。明治8(1875)年日本政府の画学教師応募に選任され翌年来日,同年創設の工部美術学校の画学教師となる。2年間の滞日中,日本では最初の正則な西洋画法の教授法を導入し,明治初期洋画を飛躍的に進展させた。また,すぐれた人格,識見で生徒に慕われた。その作風を最もよく摂取した浅井忠をはじめ,小山正太郎,松岡寿ら明治洋画を代表する洋画家たちを育てる。健康を害し明治11年教師を辞任,同年末トリノへ帰り美術学校に復職した。来日中の作品に「牧牛」「不忍池」など。トリノで没。
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フォンタネージ
Antonio Fontanesi
1818.2.23~82.4.17
イタリアの画家。レッジョ・エミリア生れ。同地の美術学校に学ぶ。バルビゾン派の画家たちと交流し,各地を旅行,19世紀イタリア風景画の代表的作家と目された。トリノの王立アルベルティーナ美術学校教授。1876年(明治9)日本政府の招請で来日。開設された工部美術学校の画学教師となり,西洋の正則カリキュラムによって,小山正太郎・松岡寿(ひさし)・浅井忠らを指導した。病により2年後帰国,トリノで死去。
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フォンタネージ Fontanesi, Antonio
1818-1882 イタリアの画家。
1818年2月23日生まれ。トリノの王立美術学校教授。明治9年(1876)工部美術学校の教師として来日。浅井忠(ちゅう),小山正太郎らをそだてた。11年帰国。1882年4月17日死去。64歳。レッジョ-ネレミリア出身。滞日中の作品に「不忍(しのばずの)池」「牧牛」などがある。
【格言など】天然を師とせよ(帰国にあたり学生にのこした言葉)
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フォンタネージ
Antonio Fontanesi
1818〜82
イタリアの画家。御雇外国人の一人
1876(明治9)年政府の招きにより来日し,工部大学校付属美術学校の教授として正規の洋画を教授。多くの学生を指導し明治前期の洋画界の発展に貢献した。門下に浅井忠・小山正太郎らがいる。'78年病気のため帰国。
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世界大百科事典(旧版)内のフォンタネージの言及
【明治・大正時代美術】より
…高橋はここで油絵,水彩画の実技指導を受ける。さらに76年新政府が西欧の科学技術摂取のために置いた工部大学校(東京大学工学部の前身)には,付属して[工部美術学校]が開設されたが,その主任教授として来日したイタリア人風景画家[A.フォンタネージ]の教示を受けるようになって,高橋の画技は急速に進んだ。高橋はその代表作《鮭》《なまり節》(ともに1877)など,日常生活の身近な事物を題材として,また遠近法や明暗法をとり入れた《浅草遠望》(1878),《不忍池》(1880)などの風景画によって,写実主義を移植し,天絵楼(てんかいろう)画塾を開いて後進を指導した。…
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