フォンタネージ(読み)ふぉんたねーじ(英語表記)Antonio Fontanesi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フォンタネージ」の意味・わかりやすい解説

フォンタネージ
Fontanesi, Antonio

[生]1818.2.23. レッジョエミリア
[没]1882.4.17. トリノ
イタリアの画家。 1832年レッジョの市立美術学校に入学。 1847年第1次イタリア独立戦争に参加し,除隊後ジュネーブに住む。しばしばヨーロッパ各地を旅行して新しい絵画思潮に触れたが,ことに 1855年のフランス旅行で発見したバルビゾン派自然描写と,1865~66年のロンドン滞在中に見たターナーコンスタブルの光の表現に強い影響を受け,光の微妙な効果をとらえた自然描写のうちに,繊細な詩情を漂わせる独特の画風確立。 1866年イタリアへ帰り,1868年ルッカの美術学校校長兼教授,1869年トリノのアルベルティーナ美術学校風景画教授。 1876年官設の工部美術学校創立に際し,明治政府に招かれ,1878年まで日本で教鞭をとった。わずか2年間の滞在であったが,浅井忠小山正太郎松岡寿ら多くの画家を育て,日本の洋画の発展に尽くした。 1879年アルベルティーナ美術学校教授に復職したが,健康を害し4年後に没した。主要作品『徒渉』 (1861) ,『十月の朝』 (1862,ローマ国立近代美術館) ,『嵐の前』 (1874) ,『春の太陽』 (1875~76) ,『サン・マウロのポー河の夕暮』 (1880~81,トリノ市立近代美術館) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フォンタネージ」の意味・わかりやすい解説

フォンタネージ
ふぉんたねーじ
Antonio Fontanesi
(1818―1882)

イタリアの画家。明治時代に来日して日本洋画の育成に貢献した。北イタリアに生まれる。郷里のレッジョ美術学校卒業後、フランス、イギリスなどヨーロッパ各地を遊学した。バルビゾン派風の風景画に一家をなし、1868年ルッカ美術学校校長、翌1869年には王立トリノ美術学校教授に進んだ。1876年(明治9)日本政府に招かれて工部美術学校画学科の教師に就任。その本格的な西洋画法の伝授は、浅井忠(あさいちゅう)、小山正太郎(こやましょうたろう)、松岡寿(まつおかひさし)、山本芳翠(やまもとほうすい)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、中丸精十郎(なかまるせいじゅうろう)(1840―1895)ら、初期洋画壇の多くの俊秀を育てた。病を得て1878年辞職して帰国、トリノに没。『不忍池(しのばずのいけ)』(東京国立博物館)、『牧牛図』(東京芸術大学)などがある。

小林 忠 2018年8月21日]


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