1877年(明治10)に工部省によって設けられ,翌年開校した工業の専門教育機関。工部省が1871年につくった工学寮が母体となった。工作局長大鳥圭介が事務を総理し,都検(principal: 教頭)としてイギリス人ヘンリー・ダイアーが招聘された。予科学・専門学・実地学各2年間の6年制で,全寮制が実施された。専門学は土木学・機械学(機械工学)・電信学(電気工学)・造家学(建築学)・実地(実用)化学(応用化学)・鉱山学(採鉱学)・冶金学(鎔鋳学)の7科からなり,1882年には造船学が置かれた。6年間の課程を修了した学生のうち,在学中の総合成績上位者にのみ,「工学士」の学位が授与された。卒業生通算211名のうち,工学士を授与されたのは61名だった。1885年工部省廃止にともなって文部省に移管され,翌年帝国大学工科大学となった。
著者: 冨岡勝
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本最初の工学教育機関。東京大学工学部の前身。工部省工学寮が1877年(明治10)改称したもので、工作局長大鳥圭介(けいすけ)が総理となった。工学寮は1871年、伊藤博文(ひろぶみ)・山尾庸三(ようぞう)の建議に基づいて設置され、1873年、機械工学者ダイエルほか8人のイギリス人教師を招いて開校、工学頭(こうがくのかみ)は山尾、教頭はダイエルであった。土木、機械、造家、電信、化学、冶金(やきん)、鉱山の7学科をもつ6年制の官費の専門学校で、学理面と実地面とを融合した、当時世界でも進歩的な工学教育機関であった。工部大学校は1879年に最初の卒業生19人を出し、1882年に造船科を増設、1885年工部省廃止に伴い文部省に移管され、翌年東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学となった。辰野(たつの)金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋(いのくちありや)ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出した。
[菊池俊彦]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…第1に御雇外国人を招いて主要な建築の設計を委嘱したことである。大きな足跡を残した人物として,造幣寮(1871,大阪)などを造ったウォートルス,工部大学校本館(1887,東京)などを設計したボアンビルC.de Boinville,陸軍参謀本部(1881以降,東京)などの設計者カペレッティ,それにコンドル,エンデHermann Ende,ベックマンWilhelm Böckmannらがいる。なかでもコンドルは来日後死去するまでの間ほとんど日本に滞在し,設計ならびに後進の指導などを通じて最も日本に貢献したといえる。…
…
[日本における工学の成立]
目を日本に転ずると,近代工学の理念の移植と定着は意外と早かった事実に驚かされる。すなわち,明治政府は産業育成に力を入れ,工部省をおいたが,工部省は早くも1871年(明治4)に,高級技術者の養成機関として工部大学校(当初は工学寮)を設立した。この学校はイギリス人ダイヤーH.Dyer(1848‐1918)の指導のもと,土木,機械,造家(建築)ほか,工学の諸分野が用意され,厳しい教育が行われた。…
※「工部大学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加