ダーウィン(読み)だーうぃん(英語表記)Charles Robert Darwin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダーウィン」の意味・わかりやすい解説

ダーウィン(Charles Robert Darwin)
だーうぃん
Charles Robert Darwin
(1809―1882)

進化論で著名なイギリスの生物学者。イングランドのシルスベリーに2月12日に生まれる。祖父は進化論の先駆者であるエラズマス、父ロバートRobert Waring Darwin(1766―1848)は医者であった。母は陶芸家ウェッジウッドの娘、また彼もウェッジウッド家の従妹(いとこ)と結婚している。富裕な文化水準も高い家庭環境に育った。1825年にエジンバラ大学医学部に入学したが、医者になる意志がなく中途退学し、ケンブリッジ大学神学部に転学して牧師になろうとした。しかし彼の興味はもっぱら博物学にあって、植物や動物の野外採集や地質の調査旅行を行っていた。1831年に卒業したとき、海軍の測量艦ビーグル号の世界一周の航海に博物学者として乗船することになった。航海は5年に及び、主として南アメリカの海岸、そのほか南太平洋諸島やオーストラリアを周航し、各地の動植物や地質を調査することができた。この航海はダーウィンの一生における重大なできごとであって、これが彼のその後の進路を決定した。つまりこのときの観察から進化についての確信が得られ、これが後のダーウィンの進化論に結実する。なおダーウィンは航海中にC・ライエルの『地質学原理Principles of Geologyを読み、地質の変化について啓蒙(けいもう)を受けた。帰国後、生物の種(しゅ)の変化に関する資料を収集し整理する仕事にとりかかり、種の変化の原因について探求した。初めはケンブリッジ、ついでロンドンに住んでいたが、健康を害し、さいわい父に資産があったので、1842年ケント州ダウンに居を構え、家族の庇護(ひご)のもとに隠遁(いんとん)生活の状態で思考と著作に専念した。

 ダーウィンはビーグル号の航海によって知りえた、南アメリカに生息する動物の分布と、同大陸に現在生活している生物と過去の生物との地質学上の関係を示す確かな事実が、当時は神秘的と考えられていた種の起原の問題に多少の光をあてるのではないかと『種の起原』の序言で述べている。たとえばアルマジロによく似た大形の化石動物を発見し、それが死滅した原因と、現在の生物との類似の原因について疑問をもった。またこのような時間的なことばかりでなく、空間的にも、たとえばガラパゴス諸島の動物のほとんどが一様に南アメリカ的な特徴をもっているが、それらが、わずかな距離しか離れていない物理的条件の同じ島ですこしずつ違った形をしていること、つまり漸進的に変化していることに注目した。鳥類のフィンチで嘴(くちばし)が非常に厚いものから薄く鋭いものまで一連の差異があることを知った「ダーウィンフィンチ」がその一例である。

 ビーグル号航海の経験はダーウィンの脳裏から離れず、帰国後も種の起原や変化について考え続けた。その結果、生物は多産であり、過剰繁殖を行うために生存競争がおこる。環境に適した有利な変異は保存され、不利な変異をおこした生物は絶滅すると考えた。この過程が自然選択であって、その結果として適者生存になる。これがダーウィンの進化論である。この考えをまとめ、1844年には草稿ができあがった。しかしライエルの忠告によって、さらに大部のものに改稿し始めた。ところが1858年に、マレー半島にいたA・R・ウォーレスから、彼と同じ自然選択による種の起原に関する論文が送られてきたので、これを機会に彼とウォーレスの論文をいっしょにして連名でロンドンのリンネ学会で発表した。ダーウィン単独の論文はその翌年の1859年に初めの予定より縮小した形で『種の起原』として出版された。ビーグル号航海から帰国後23年が経過している。『種の起原』が出版された当時は、生物はすべて全能の神が創造したものであって、古来不変であるというキリスト教の『旧約聖書』「創世記」の思想が一般には信じられていた。したがって、キリスト教の教義に対してまっこうから異議を唱え、生物の進化に関する膨大かつ科学的な証拠とともに、進化の原因について解明したダーウィンの学説は生物学上のみならず一般の思想界に強烈な影響を与えた。『種の起原』では、人間に関してはほんのひとことしか書かれなかったが、やがて1871年になって『人間の由来』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sexが出版され、人間も他の生物と同じ法則に従って進化してきたことが明らかにされた。進化論の発表以後、教会その他から猛烈な批判がおこったが、友人のT・H・ハクスリーやドイツのE・H・ヘッケルらが彼の説を支持し論戦に参加してダーウィンを擁護し、進化論の普及に努力した。ダーウィンの進化要因論である自然選択説に関してはその後も生物学上の論争が現在までも続いているが、生物の進化の事実は現在では生物学上の常識になっている。ダーウィンは『種の起原』出版後も研究を続け、多くの著作を残している。1882年4月19日ダウンにて73歳で死去、ウェストミンスター寺院に埋葬された。

[宇佐美正一郎 2015年7月21日]

『八杉竜一著『ダーウィンの生涯』(岩波新書)』


ダーウィン(Erasmus Darwin)
だーうぃん
Erasmus Darwin
(1731―1802)

イギリスの博物学者、医師、詩人。C・ダーウィン、F・ゴルトンの祖父。ケンブリッジ、エジンバラ両大学で医学を学び、1755年学位を取得。リッチフィールドダービーで医師を開業。当時の啓蒙(けいもう)的知識人であり、ルソーやプリーストリーらとも交わり、1766年ルナ・ソサエティー創立にも関与した。ビュフォンの影響を受け、生物進化の考えを抱き、動物の発生については前成説を否定、これらの考えを『ズーノミア』Zoonomia2巻(1794、1796)で明らかにした。C・ダーウィンはこの祖父の影響を受けたといわれる。ほかに『植物の園』The Botanic Garden(1789)、『自然の殿堂』Temple of Nature(1803)などがある。

[佐藤七郎]


ダーウィン(George Howard Darwin)
だーうぃん
Sir George Howard Darwin
(1845―1912)

イギリスの天文学者。潮汐論(ちょうせきろん)の権威。生物進化論のダーウィンの二男。1868年ケンブリッジ大学を優等で卒業後、特別研究員に選抜され、1883年同大学の天文学教授に就任、以降終身、研究と教育と著述に業績をあげ、1892年王立協会金賞を受け、1899年同協会会長となり、1905年ナイトに叙せられ、1912年国際数学者会議総裁を務めた。主要研究は地球潮汐の調和解析、潮汐摩擦の影響推論、三体問題における周期軌道の計算、回転流体の平衡形状の探究などである。これらの数理理論を地球‐月系や連星系に応用してその起源と進化を克明に考察した。主著は『潮汐ならびに太陽系における類似現象』(1898)。

[島村福太郎]


ダーウィン(オーストラリア)
だーうぃん
Darwin

オーストラリア北部、ノーザン・テリトリーの行政中心地、港湾都市。人口10万9419(2001)。熱帯サバナ気候で、平均気温は最暖月(11月)29.3℃、最寒月(7月)24.9℃、年降水量は1827ミリメートル。5~10月が乾期。同国北部の交通・通信の拠点で国際空港がある。1839年ビーグル号の測量技師ジョン・ストークスが来航し、生物学者ダーウィンにちなんで命名した。1869年入植、パーマストンPalmerstonと名づけられたが、1911年公式にダーウィンと改称。1872年アデレードとの間に大陸縦断電信線が敷設された。第二次世界大戦中に連合軍拠点となり、日本軍の空襲(1942)を受けた。1974年にサイクロンによる被害を受けた。

[谷内 達]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダーウィン」の意味・わかりやすい解説

ダーウィン
Darwin, Charles Robert

[生]1809.2.12. サロップ,シュルーズベリー
[没]1882.4.19. ダウン
イギリスの博物学者。『種の起原』を著わして生物進化の理論を確立した。 E.ダーウィンの孫。エディンバラ大学に入学する (1825) が,2年で退学,ケンブリッジ大学に入り直す (28) 。ここで植物学者の J.ヘンズローらに博物学を学ぶ。 1831年から海軍の『ビーグル』号に博物学者として乗組み,5年にわたって,太平洋,大西洋の島々,南アメリカ沿岸,ガラパゴス諸島などを訪れ,動植物相の観察や化石の採集,地質の研究などを行なった。彼は航海中に行なった諸観察から,種が変化する可能性を考えるようになり,37年よりそれに関するノートを書きはじめた。進化論の執筆を始めて (56) まもなく,R.ウォレスから彼の理論と同一内容の論文を受取り (58) ,C.ライエルらのはからいで業績の要約をリンネ学会で発表し (58) ,59年『種の起原』を出版した。ダーウィンの進化論は,彼以前の進化思想に比し,内容が科学的でしかもそれが豊富な実例によって裏づけられている点に特徴があり,強い説得力をもちえ,大きな反響を呼んだ。また『種の起原』は,環境への生物の適応を扱っており,生態学の出発点ともなっている。しかし一方で,ダーウィン自身 T.マルサスの『人口論』からの影響について述べており,また一般にその時代の自由放任主義 (レッセ・フェール) 理念の反映であるといわれることもある。進化論に対する宗教界からの攻撃には,T.ハクスリーが代って応戦した。ダーウィンは 71年『人間の由来』で,進化論を人間の起源にまで拡張した。以後,晩年は植物の運動に関する実験的研究を行い,その結果を『植物の運動力』 (80) などにまとめている。 20世紀に入って,ダーウィンの自然選択説とメンデル遺伝学とが組合わされて,現在の進化機構論が形成されている。

ダーウィン
Darwin, Erasmus

[生]1731.12.12. エルトン
[没]1802.4.18. ダービー
イギリスの医者,博物学者,詩人。 C.ダーウィンおよび優生学の創始者 F.ゴルトンの祖父。ケンブリッジ (1750~54) ,エディンバラ (54~56) 両大学に学んだのち,内科医を開業して成功。みずからの科学思想を詩に作って出版。『植物の園』 The Botanic Garden (92) ,『ズーノミア』 Zoonomia or the Laws of Organic Life (94~96) が代表作。特に後者は,進化思想を表わしたものとして名高い。動物は,そのおかれた環境に適応できるようにみずからをつくり変えると彼は考えたが,これは J.ラマルクの進化思想に共通した点を多く含み,C.ダーウィンの進化論の先駆をなすものとされている。

ダーウィン
Darwin, Sir George Howard

[生]1845.7.9. ケント,ダウン
[没]1912.12.7. ケンブリッジ
イギリスの天文学者。 C.ダーウィンの次男。ケンブリッジ大学に学び,同大学の天文学,実験哲学教授 (1883) 。 P.ラプラスケルビンらの理論を発展させ,地球-月系の運動における潮汐摩擦効果を明らかにし,月がかつて地球の一部から切り離されたものであると主張した (現在は誤りとみなされている) 。また数学理論に基づいて太陽系の進化を議論した。王立天文協会会長 (99) ,イギリス科学振興協会会長 (1905) をつとめ,1905年バス上級勲爵士に叙せられた。

ダーウィン
Darwin

オーストラリア,ノーザンテリトリーの行政中心地。アーネムランド北西端に位置し,ティモール海にのぞむ港湾都市で,パースからの沿岸航路の終点。 1911年まではパーマストンと呼ばれていたが,その後 C.ダーウィン (1838来航) にちなんで改名。シドニー,シンガポールを結ぶ国際空港もある。南東 500kmにあるラリマーまで鉄道が延び,南南東 1535kmのアリススプリングズと国道で結ばれる。ノーザンテリトリーの玄関として農牧産品,鉱産物が集散される。 74年 12月のサイクロンで大きな被害にあい,建物の大半が破壊され,人口が一時減少したが,復興した。人口6万 9809 (1991推計) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報