富岡製糸場(読み)トミオカセイシジョウ

デジタル大辞泉 「富岡製糸場」の意味・読み・例文・類語

とみおか‐せいしじょう〔とみをかセイシヂヤウ〕【富岡製糸場】

明治前期の官営模範製糸工場。明治5年(1872)群馬県富岡に設立。フランスより機械と技術を導入、近代的熟練工を養成した。明治26年(1893)より民間に払い下げられ、昭和62年(1987)操業停止。繰糸所・東置繭所・西置繭所は国宝。平成26年(2014)「富岡製糸場と絹産業遺産群」の名で、田島弥平旧宅などとともに世界遺産文化遺産)に登録された。

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共同通信ニュース用語解説 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場

明治政府が西欧から最新技術を導入し、1872年に設立した官営製糸工場。民営化を経て1987年に操業を停止し、建物はその後、群馬県富岡市に寄付された。和洋折衷の様式で建てられた木骨れんが造りの倉庫や繰糸所などがほぼ完全に残り、約5万5千平方メートルの敷地に並ぶ。2014年6月25日、近代養蚕農家の原型「田島弥平旧宅たじまやへいきゅうたく」などと共に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、世界文化遺産に登録された。

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日本歴史地名大系 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場
とみおかせいしじよう

[現在地名]富岡市富岡

かぶら川の左岸沿いにある。明治政府の殖産興業策により、良質の生糸を生産輸出するために洋式機械を導入し、その指導者を外国に求め、生産活動を通じて新技術を習得する目的で設置された官営模範製糸工場。各県から集まった者は、従来の座繰製糸から機械製糸に移行する技術を身につけるための伝習工女、男子伝習生であった。明治二年(一八六九)五月、養蚕状況視察のためイギリス人アダムスとフランス人ブリューナの一行が安中から信州・甲州を巡って横浜に帰着。翌三年五月再びアダムスの一行が東京から現埼玉県内、藤岡・富岡、下仁田しもにた(現甘楽郡下仁田町)を経て信州を巡り、一ヵ月後に富岡を再訪し、吉井よしい(現多野郡吉井町)から秩父ちちぶを巡った。政府に依頼されての場所選定のためであった。同年一二月四日、富岡に製糸場を設けることが太政官布告された。同年六月にはすでに在留フランス人ジブスケ、フランス商人カイセルナイモを介しブリューナ雇入れの仮契約をし、翌四年一〇月一日彼と帰国先リオンで調印した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富岡製糸場」の意味・わかりやすい解説

富岡製糸場
とみおかせいしじょう

明治政府が、1872年(明治5)10月4日、群馬県富岡で繰糸を開業した官営模範工場。1870年、大蔵省と民部省は、租税正(せい)渋沢栄一(しぶさわえいいち)、駅逓権正(えきていごんのせい)杉浦譲(すぎうらゆずる)(1835―1877)らに計画を進めさせ、フランス人技師ポール・ブリューナPaul Brunat(1840―1908)を雇い入れ、1872年7月れんが造りの建物(フランス人バスチャンEdmond Auguste Bastien(1839―1888)が設計)をほぼ完成、フランスから蒸気器械製糸の機器類を買い入れ、技術の移植を図った。糸繰り場は、542坪、300釜(かま)、当初フランス人工女4人が指導にあたった。原料繭の蛹(さなぎ)を蒸殺する方法(イタリア式)や、一度とった生糸を大枠に巻き直す揚返(あげかえ)しの工程(日本独自のもの)を採用、生糸を巻き取る繰車の動力と煮繭(しゃけん)用蒸気のために蒸気釜(ボイラー)6基を据え付けた。工女は、1872年3月、まず群馬・埼玉・入間(いるま)(現、埼玉)・栃木・長野の5県で募集し、応じる者が少ないので、初代場長尾高惇忠(おだかあつただ)(1830―1901。入間)は郷里から13歳の長女などを入場させた。募集範囲をしだいに全国に広げ、払下げのあった1893年までに開拓使本庁・函館(はこだて)支庁のほか3府37県(現在の行政区画で1道1都2府32県)から工女が入った。工女は、伝習した技術を各地に広めた。1881年以降の紙幣整理に伴い、官営工場の払下げが始まり、1893年、三井財閥の手に移った。なお、初期の製糸場のようすは、工女和田英(わだえい)の『富岡日記』によって知ることができる。

[上條宏之 2018年9月19日]

2014年(平成26)には、「富岡製糸場と絹産業遺産群」としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。また、同年、旧富岡製糸場の操糸所(そうしじょ)、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、西置繭所(にしおきまゆじょ)の3棟が国宝に指定された。

[編集部 2018年9月19日]

『上條宏之著『絹ひとすじの青春――「富岡日記」にみる日本の近代』(1978・NHKブックス)』


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知恵蔵 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場

1872(明治5)年に開業した、群馬県富岡市の製糸工場。当時輸出の主力だった生糸生産を近代化し、殖産興業を推進するために明治政府が設立した。日本最初の本格的な器械製糸による官営模範工場として知られる。民間に払い下げ後1987年まで操業を続けた。2014年6月21日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された。
江戸時代末期に開国して以降、生糸は日本の輸出を支えた。しかし、手工業による生糸生産は、需要急増から粗製乱造に陥り、日本産生糸の評価が低落した。また、富国強兵・殖産興業を目指す明治政府は、軽工業の振興が急務となっていた。その中で、生糸の品質改善・生産向上と技術指導者の育成を目的とし、洋式の技術と設備を導入した官営の近代的な模範製糸工場建設が計画された。建設候補地はフランス人技師ポール・ブリュナらが調査。周辺地域で養蚕が盛んで、製糸に必要な水が確保でき、燃料が近く(旧高崎炭田)で調達できることなどから富岡が選ばれた。製糸場の設計はフランス人のオーギュスト・バスチャンが担当。フランス式の繰糸器械を用い、蒸気機関を導入して動力や熱を供給する近代的工場となった。政府の役人として建設当初から関わった尾高惇忠(じゅんちゅう)が初代場長となり、娘の勇(ゆう)は最初の工女として入場した。操業開始は1872年10月4日。翌73年には「富岡シルク」がウィーン万国博覧会で高い評価を得た。また、当初は労働環境も近代的なものだったという。
93年に当初の器械製糸普及と技術者育成という目的が果たされたとして、官営工場払い下げの趣旨により政商の三井家(後の三井財閥)に引き渡された。1902年には原合名会社が譲渡を受け、養蚕技術教育機関「高山社」と連携して繭を提供する農家の蚕種改善なども進め品質向上を図った。38年には、株式会社富岡製糸所として分離し、経営は筆頭株主の片倉に委任された。翌39年に片倉製糸紡績株式会社に合併。87年3月には、生糸の値段の低迷などにより操業を停止した。2005年に富岡市に工場建物が寄付されるまで、片倉工業株式会社が所有・管理してきた。
歴代所有者の意向などにより、創業時からの建造物がいまなお良好な状態で保っている。繰糸場、東・西2棟の繭倉庫、女工(教婦)館や検査人館、ブリュナ館といった外国人宿舎などは創業時の名残を今に留める。主要な建物は「木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)」といわれる、木の骨組みで壁に煉瓦を積み入れた造り。繰糸場は長さ140メートル、幅12メートル、高さ12メートルほどもあり、当時としては世界有数の規模を誇る。ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)が「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録を勧告。14年6月の世界遺産委員会で登録が決まり、日本の世界遺産の18件目になった。

(金谷俊秀  ライター / 2014年)

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改訂新版 世界大百科事典 「富岡製糸場」の意味・わかりやすい解説

富岡製糸場 (とみおかせいしじょう)

1872年(明治5)に開業した官営模範製糸場。政府は輸出生糸の品質低下を憂えて1870年にフランス人ブリュナPaul Brunat(1840-1908)を雇い入れ,群馬県富岡にフランス製繰糸器械300釜を備えた大規模な模範製糸場を約20万円を費やして設立した。富岡の地が選ばれたのは優良な原料繭と豊富な水に恵まれていたためといわれる。政府内で立案・実施を担当したのは大蔵省の渋沢栄一と民部省(のち大蔵省)の尾高惇忠であり,尾高は76年まで初代所長をつとめた。尾高は全国から伝習工女を募集しフランス人教婦の下で器械繰糸技術を習得させ,彼女らは帰郷後各地の器械製糸場の発展を支えた。長野県の六工社で働いた横田(和田)英たちや三重県の室山製糸場から派遣された伊藤小十郎の妻と妹の話は著名である。また富岡製糸所の繰糸器械の原理も各地の器械製糸家によって模倣されていった。尾高のあと主として速水堅曹が所長をつとめたが,93年に三井家へ払い下げられた。三井家では520釜に拡張し,大嶹・名古屋・三重製糸場とともに経営したが,1902年に横浜の生糸売込問屋原合名会社へ売却した。原富岡製糸所長古郷時待は06年以降優良蚕種の配布を行い,大久保佐一所長(在任1909-33)も特約取引を拡充して高級格生糸の生産につとめたが,原合名の経営悪化により同製糸場は38年片倉製糸の手に移り,現在は片倉工業富岡工場となっている(2005年富岡市に寄贈)。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富岡製糸場」の意味・わかりやすい解説

富岡製糸場
とみおかせいしじょう

明治5(1872)年,群馬県富岡(→富岡市)に設立された器械製糸工場。明治政府の殖産興業政策による日本初の官営模範工場(→官業)として,渋沢栄一らの尽力で設立された。当時最大の輸出品であった生糸の品質向上と技術者の育成のため,養蚕業が盛んだった富岡が選ばれた。設備や生産技術はフランスから導入され,従業員は士族の子女が多かった。優秀な技術で優れた製品を生産したが,原料高と経費高のために損失を出し,1893年には三井家に払い下げられ(→工場払下げ),さらに 1902年原合名会社に譲渡,1939年片倉製糸紡績(→片倉工業)に合併された。その後は生糸の価格低迷などで苦しみ,1987年3月に操業を停止した。明治初期の建造物としてよく保存されており,国の重要文化財,国の史跡に指定されている。また産業の発展に貢献したとして,2014年「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の文化遺産に登録された。ほかの登録施設は,養蚕農家の田島弥平旧宅(伊勢崎市),養蚕技術の教育の場だった高山社跡(藤岡市),蚕の卵が保管された荒船風穴(下仁田町)。

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百科事典マイペディア 「富岡製糸場」の意味・わかりやすい解説

富岡製糸場【とみおかせいしじょう】

渋沢栄一らの企画により1872年群馬県富岡に設けられた官営模範工場。フランス製繰糸器械300釜を備えた大規模工場で,フランス人技師ブリューナ〔1840-1908〕が設計し,その指導で操業を開始,優良品を生産して製糸技術向上に寄与した。1893年三井家に払い下げ,のち生糸売込問屋原合名会社に譲渡,さらに1938年片倉製糸紡績株式(現・片倉工業株式会社)に合併された。1987年3月に操業を停止した。2006年に建築物7棟,貯水槽(鉄水溜)1基,排水溝(下水竇及び外竇)1所が〈旧富岡製糸場〉の名称で重要文化財に指定された。2014年には重要文化財〈旧富岡製糸場〉の一部(繰糸所,東・西置繭所の3棟)が国宝に指定,さらに〈富岡製糸場と絹産業遺産群〉として世界遺産(文化遺産)に登録された。
→関連項目製糸業世界遺産条約富岡[市]藤原銀次郎

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知恵蔵mini 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場

明治政府が群馬県富岡市に設置した日本初の官営器械製糸工場。日本の近代化政策の一環として、輸出用の良質な生糸を大量生産するために作られた。同工場はフランス人技師ポール・ブリューナの指導により建設され、1872年に操業を開始。93年に民営化されたが、経営主体を変えながらも1987年まで約115年間に渡って操業を続け、製糸技術の向上に寄与した。操業当時の建物の多くが良好な状態で現存しており、2005年、国の重要文化財に指定された。07年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として日本の暫定世界遺産リストに選定され、12年にユネスコの世界文化遺産への推薦が決定した。

(2012-07-13)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場
とみおかせいしじょう

1872年(明治5)10月群馬県富岡に開設された官営のフランス式器械製糸場。フランス人生糸検査技師ブリュナの指導のもとに,フランス式輸入器械300台と蒸気機関を据え付け,士族の子女などを集めて操業を開始した。優良な生糸を生産したが経営は赤字がちで,93年に三井に払い下げられたが,明治前期における各地の器械製糸場普及に大きな役割をはたした。1902年に原合名会社,38年(昭和13)に片倉製糸の経営となり,87年操業を停止。国史跡,主要建造物は重文。2014年(平成26)に世界文化遺産に指定。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場
とみおかせいしじょう

明治初期,群馬県富岡に設立された代表的な官営模範工場
明治政府の殖産興業政策に基づき1870年設置,'72年操業開始。フランスの技師や機械を入れ,初代主任尾高惇忠は郷里埼玉県から士族の子女などを集めて工女を養成。機械製糸技術を各地へ広める中心となった。'93年三井に払い下げられ,その後経営者は再三代わり,1938年片倉製糸の経営となり,'87年操業停止。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

事典 日本の地域遺産 「富岡製糸場」の解説

富岡製糸場

(群馬県富岡市富岡1-1)
ぐんま絹遺産」指定の地域遺産〔第23-20号〕。
1872(明治5)年明治政府が設立した官営の器械製糸場。国指定重要文化財・史跡

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

世界大百科事典(旧版)内の富岡製糸場の言及

【織物】より

…その後,明治政府は綿糸布の輸入の増大を防ぎ,日本の綿紡績を保護するために,新しい機械の導入や紡績会社の設立に努めた。生糸も従来の座繰りから機械製糸への転換を図るため,政府は1870年(明治3)富岡製糸場の設立を計画し,フランス人技師の指導でフランス式繰糸機300釜を設置し,またスイス人技師の指導でイタリア式繰糸機の技術導入も行った。 西洋織機の輸入は1872年,機織法の改善に着眼した京都府知事長谷信篤によってフランスのリヨンに派遣された西陣の佐倉常七,井上伊兵衛,吉田忠七の3人のうち翌年帰朝した佐倉,井上が,バッタン,ジャカード,金筬,紋彫器を携えてきたのが最初である。…

【生糸】より

…例えば信州諏訪地方へは1860年(万延1)に上州座繰器が導入され,従来の手挽に比して労働生産性は約2倍となり,端緒的なマニュファクチュア(工場制手工業)も現れた。その後72年(明治5)開業の官営富岡製糸場や73年開業の小野組二本松製糸場などの影響を受けて,長野・山梨・岐阜3県を中心に多数の器械製糸場が設立され,79年にはその数は666に及んだ。その多くは10~30人繰の小規模マニュファクチュアで,簡易化された安価な繰糸器械を備えつけており,おもに豪農や中農によって設立された。…

【フランス】より

… ベルクールの後任L.ロッシュはイスラム世界で長く外交官の経験があり,アラビア語に堪能でイスラムに改宗し,現地語の重要性をよく認識していたので,1864年日本に着任すると,日本語に習熟したメルメ・ド・カション神父を外交官に採用し,薩長を支持するイギリスに対抗して幕府を支持した。さらにメルメ・ド・カションが箱館で交際した栗本瀬兵衛(鋤雲)や小栗上野介忠順(ただまさ)ら,幕府の親仏派と結び,技師ベルニーFrançois Léonce Verny(1837‐1908)を来日させて横浜製鉄所,横須賀造船所を建設させ,後にドレフュス事件の際の陸軍大臣となるシャノアーヌJules Chanoine(1835‐1915)大尉を筆頭とする軍事顧問団を送り,富岡製糸場のためにはブリュナPaul Brunat(1840‐1908?)を呼んだ。65年にはメルメ・ド・カションに横浜フランス語学校を開かせ,67年のパリ万国博覧会には幕府に日本館を出させるとともに,将軍慶喜の弟,徳川昭武をフランスに留学させた。…

※「富岡製糸場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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