明治政府が西欧から最新技術を導入し、1872年に設立した官営製糸工場。民営化を経て1987年に操業を停止し、建物はその後、群馬県富岡市に寄付された。和洋折衷の様式で建てられた木骨れんが造りの倉庫や繰糸所などがほぼ完全に残り、約5万5千平方メートルの敷地に並ぶ。2014年6月25日、近代養蚕農家の原型「
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明治政府が、1872年(明治5)10月4日、群馬県富岡で繰糸を開業した官営模範工場。1870年、大蔵省と民部省は、租税正(せい)渋沢栄一(しぶさわえいいち)、駅逓権正(えきていごんのせい)杉浦譲(すぎうらゆずる)(1835―1877)らに計画を進めさせ、フランス人技師ポール・ブリューナPaul Brunat(1840―1908)を雇い入れ、1872年7月れんが造りの建物(フランス人バスチャンEdmond Auguste Bastien(1839―1888)が設計)をほぼ完成、フランスから蒸気器械製糸の機器類を買い入れ、技術の移植を図った。糸繰り場は、542坪、300釜(かま)、当初フランス人工女4人が指導にあたった。原料繭の蛹(さなぎ)を蒸殺する方法(イタリア式)や、一度とった生糸を大枠に巻き直す揚返(あげかえ)しの工程(日本独自のもの)を採用、生糸を巻き取る繰車の動力と煮繭(しゃけん)用蒸気のために蒸気釜(ボイラー)6基を据え付けた。工女は、1872年3月、まず群馬・埼玉・入間(いるま)(現、埼玉)・栃木・長野の5県で募集し、応じる者が少ないので、初代場長尾高惇忠(おだかあつただ)(1830―1901。入間)は郷里から13歳の長女などを入場させた。募集範囲をしだいに全国に広げ、払下げのあった1893年までに開拓使本庁・函館(はこだて)支庁のほか3府37県(現在の行政区画で1道1都2府32県)から工女が入った。工女は、伝習した技術を各地に広めた。1881年以降の紙幣整理に伴い、官営工場の払下げが始まり、1893年、三井財閥の手に移った。なお、初期の製糸場のようすは、工女和田英(わだえい)の『富岡日記』によって知ることができる。
[上條宏之 2018年9月19日]
2014年(平成26)には、「富岡製糸場と絹産業遺産群」としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。また、同年、旧富岡製糸場の操糸所(そうしじょ)、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、西置繭所(にしおきまゆじょ)の3棟が国宝に指定された。
[編集部 2018年9月19日]
『上條宏之著『絹ひとすじの青春――「富岡日記」にみる日本の近代』(1978・NHKブックス)』
(金谷俊秀 ライター / 2014年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
1872年(明治5)に開業した官営模範製糸場。政府は輸出生糸の品質低下を憂えて1870年にフランス人ブリュナPaul Brunat(1840-1908)を雇い入れ,群馬県富岡にフランス製繰糸器械300釜を備えた大規模な模範製糸場を約20万円を費やして設立した。富岡の地が選ばれたのは優良な原料繭と豊富な水に恵まれていたためといわれる。政府内で立案・実施を担当したのは大蔵省の渋沢栄一と民部省(のち大蔵省)の尾高惇忠であり,尾高は76年まで初代所長をつとめた。尾高は全国から伝習工女を募集しフランス人教婦の下で器械繰糸技術を習得させ,彼女らは帰郷後各地の器械製糸場の発展を支えた。長野県の六工社で働いた横田(和田)英たちや三重県の室山製糸場から派遣された伊藤小十郎の妻と妹の話は著名である。また富岡製糸所の繰糸器械の原理も各地の器械製糸家によって模倣されていった。尾高のあと主として速水堅曹が所長をつとめたが,93年に三井家へ払い下げられた。三井家では520釜に拡張し,大嶹・名古屋・三重製糸場とともに経営したが,1902年に横浜の生糸売込問屋原合名会社へ売却した。原富岡製糸所長古郷時待は06年以降優良蚕種の配布を行い,大久保佐一所長(在任1909-33)も特約取引を拡充して高級格生糸の生産につとめたが,原合名の経営悪化により同製糸場は38年片倉製糸の手に移り,現在は片倉工業富岡工場となっている(2005年富岡市に寄贈)。
執筆者:石井 寛治
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(2012-07-13)
1872年(明治5)10月群馬県富岡に開設された官営のフランス式器械製糸場。フランス人生糸検査技師ブリュナの指導のもとに,フランス式輸入器械300台と蒸気機関を据え付け,士族の子女などを集めて操業を開始した。優良な生糸を生産したが経営は赤字がちで,93年に三井に払い下げられたが,明治前期における各地の器械製糸場普及に大きな役割をはたした。1902年に原合名会社,38年(昭和13)に片倉製糸の経営となり,87年操業を停止。国史跡,主要建造物は重文。2014年(平成26)に世界文化遺産に指定。
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…その後,明治政府は綿糸布の輸入の増大を防ぎ,日本の綿紡績を保護するために,新しい機械の導入や紡績会社の設立に努めた。生糸も従来の座繰りから機械製糸への転換を図るため,政府は1870年(明治3)富岡製糸場の設立を計画し,フランス人技師の指導でフランス式繰糸機300釜を設置し,またスイス人技師の指導でイタリア式繰糸機の技術導入も行った。 西洋織機の輸入は1872年,機織法の改善に着眼した京都府知事長谷信篤によってフランスのリヨンに派遣された西陣の佐倉常七,井上伊兵衛,吉田忠七の3人のうち翌年帰朝した佐倉,井上が,バッタン,ジャカード,金筬,紋彫器を携えてきたのが最初である。…
…例えば信州諏訪地方へは1860年(万延1)に上州座繰器が導入され,従来の手挽に比して労働生産性は約2倍となり,端緒的なマニュファクチュア(工場制手工業)も現れた。その後72年(明治5)開業の官営富岡製糸場や73年開業の小野組二本松製糸場などの影響を受けて,長野・山梨・岐阜3県を中心に多数の器械製糸場が設立され,79年にはその数は666に及んだ。その多くは10~30人繰の小規模マニュファクチュアで,簡易化された安価な繰糸器械を備えつけており,おもに豪農や中農によって設立された。…
… ベルクールの後任L.ロッシュはイスラム世界で長く外交官の経験があり,アラビア語に堪能でイスラムに改宗し,現地語の重要性をよく認識していたので,1864年日本に着任すると,日本語に習熟したメルメ・ド・カション神父を外交官に採用し,薩長を支持するイギリスに対抗して幕府を支持した。さらにメルメ・ド・カションが箱館で交際した栗本瀬兵衛(鋤雲)や小栗上野介忠順(ただまさ)ら,幕府の親仏派と結び,技師ベルニーFrançois Léonce Verny(1837‐1908)を来日させて横浜製鉄所,横須賀造船所を建設させ,後にドレフュス事件の際の陸軍大臣となるシャノアーヌJules Chanoine(1835‐1915)大尉を筆頭とする軍事顧問団を送り,富岡製糸場のためにはブリュナPaul Brunat(1840‐1908?)を呼んだ。65年にはメルメ・ド・カションに横浜フランス語学校を開かせ,67年のパリ万国博覧会には幕府に日本館を出させるとともに,将軍慶喜の弟,徳川昭武をフランスに留学させた。…
※「富岡製糸場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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