ガリチ=ボルイン公国(読み)ガリチ=ボルインこうこく(その他表記)Galitsko-Volynskoe Knyazhestvo

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ガリチ=ボルイン公国」の意味・わかりやすい解説

ガリチ=ボルイン公国
ガリチ=ボルインこうこく
Galitsko-Volynskoe Knyazhestvo

キエフ公国の滅亡後,ロシアの南西部に成立し,13世紀から 14世紀初頭を通じて独立を保ったロシアの封建公国の一つ。ウラジーミル2世 (モノマフ) が 1125年に死んだのち,キエフ戦乱に巻込まれ,69年スズダリのアンドレイ・ボゴリュプスキー公によるキエフ市の占領で国家としての政治的命脈を断ったが,そのなかから,カルパート山脈に沿う高地のガリチア地方にガリチ公国が,またその東北森林地帯にボルイン公国がキエフ国家の後継者として隣合せに誕生した。ガリチ公国はヤロスラフ鋭敏公 (在位 1153~87) のときに栄え,彼の死後貴族と大領主の間に内紛が発生,再びハンガリー圧迫を受けるようになった。ウラジーミルボルインスキー市を中心に発展したボルイン公国は,ウラジーミル2世の子孫ロマン公 (在位 70~1205) のもとにこの機会をとらえて干渉し,99年両公国は合併してガリチ=ボルイン公国となった。ロマンはそれぞれの「世襲地 (ボッチナ) 」によって立つ地方領主と戦って公権力の伸張をはかり,キエフに勢力を及ぼした。彼の死後,内乱と外国干渉の一時期があったが,それを克服した息子ダニール公 (在位 21~64) の治世に最盛期を迎えた。しかしタタールモンゴルの中南ロシア大侵略が始り,1240~41年にはその領土ハン軍隊に蹂躪された。それを契機に公国は衰退の道をたどり,14世紀の初頭,リトアニア (リトワ) 勢力の全面的侵入が開始された際,支えきれずに独立を失った。

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